「二十歳の学生ですが麻雀にハマって最近はフリー雀荘に入り浸っています。
しかしいつも勝負所で心が揺れてしまいます、どうすれば良いのか」と
馬鹿学生から 将来有望な若者からメールを頂きました、ありがとうございます。
心が揺れるといっても、そもそも心とは存在しないものであります。
波の動きを見ていると様々な形に見え、たまに何か意味のある形に見える場合もありますが、
だからといってそれが実際に存在するわけではないのと似ています。
なので話が飛びますが潜在意識の法則とか何だとかいうのも、結局は心がそのような
ガワを被って存在するかのように振舞っているだけです。
ある一定のパターンを見てナントカの法則と名付けているわけです。
では潜在意識どうこうは存在しないのか、というとそうではありません。
何も感じずにボケッと波を見ていても波は存在するのと同じで、名前を付けられない
何かは常に存在します。
簡単に言うと熟睡している時でも耳元で大声を出されたら起きるし、
顔を引っ叩かれても起きると思います。つまり寝ていても、意識というか何というか、
何かは常に存在するわけですね。
死んでしまうとこういった感覚受容器と意識が分断されるので、引っ叩かれようが
何されようが起きなくなりますが、それはあくまでも受容器と意識の分断であって、
意識が消滅するのではありません。
フィルムをぶった切れば映画は映らなくなりますが、スクリーンがぶっ壊れるわけでは
無いのと同じです。
注目すべきは耳元で大声出されて起きるというプロセスは心を通さないという事ですね。
フィルムを流せばスクリーンに映像が出るのと同じで、あらゆる事象はダイレクトに
起きるのであります。その事象に歪んだガワを被せて、
”何かに見える”ものを
心と名付けているのであります。
つまり、
心は現実を創っていないのですよ。あくまで意識がダイレクトに創っているのですね。
ですから
揺れない心を鍛えるとかより、揺れる心自体がまやかしである事を知るべきです。
心の存在を疑えば、熟睡している時も、死んだ時も、
”常に在る何か”しか
そこには在りません。つまりそれが潜在意識と心が名付けているものであって、
元々最初から
”それ”と一体だったのですよ。
話が麻雀と全然関係無い方向にブッ飛んでしまいましたが、
そもそも今時の若者で雀荘に行って麻雀打つってあんまり居ないんじゃないでしょうか。
私が馬鹿学生だった頃は、もうかれこれ20年近く前になりますが、
その当時はまだ結構居たように思います。
賭博罪の時効は3年らしいなので白状しますが、私の祖父も麻雀好きで、
家に当時最新の全自動卓があった事もあり、
一時期私の実家は高レートアングラ雀荘と化していました。
でも場代を取ったりはしてなかったので、賭博開帳罪はセーフという事で勘弁してください。
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