連休中は新幹線で嫁さんの実家に行ったりしてたんですが、
「新幹線や飛行機が怖くてしょうがない、怖いものに対してどう取り組むのか」という
実にタイムリーなメールを頂きました。
少々話が飛びますが、私とか個人というものは関係性の中でしか
現れないものであります。例えば水が空から降ってきたら雨ですが、山の中で
流れたら滝になるように、存在とは関係性の中でしか出現しない現れては消える波の
ようなものです。
なので何かに怖がっている私、というのも「何か」との関係が無いと
出てこないのですね。
問題は関係性を持ったものを「私である」と認識する事であります。
この記事でも書きましたが、ネカマを演じている時は何も思わないのに、
実名だと何かムカつくのは、実名と関係性を持つ事で「私」が現れるという事ですね。
ですから関係性を排除していって、残るものがあるのかどうかを探る事であります。
瞑想するのも良いかもしれませんが、何を持って「瞑想している私」としているのか。
目をつぶって視界が真っ暗だから瞑想していると感じているのか、リラックスしているから
なのか、あるいは座禅を組んでいるからなのか、様々な関係性の中で「瞑想している私」が
出現しているのです。
何かをしている「私」は存在しない、というのは関係性の中でしか「私」を認識出来ない
からです。ネカマキャラでは恐怖を感じたりしないのは、最初から関係性が無いからです。
「私」じゃないからですね。
なので「怖いものにどう対応するのか」は、関係性を放棄すればおのずと恐怖は
無くなります。関係性が無いとは
「私」が無ければ「彼」も無い境地であります。
「怯える私」も居なければ、「恐怖を与える彼」も居なくなり、一つになるのです。
偉そうに書いていますが、恐妻家の私が言ってもあんまり説得力無いですね。
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