突然ですがクイズの時間です。
下の図で?に来る図形は何でしょうか。
〇 △ 〇 △ ?多分、殆どの人が瞬間的に〇じゃないかと思ったはずです。
で、その理由としては「パッと見て法則性があるから」とか「似たようなクイズは
よくあるから」とか「〇と△しか無いから」とか色々とあると思いますが、
「ある法則に基づいて並んでいます」とかは
書いていないのに、答えは〇ではなかろうかと
思ってしまうという事は、並んでいる図形に一定の法則を勝手に見出していると
いう事であります。
つまり「クイズです」という言葉と、並んでいる図形という刺激に対しての
反応に過ぎないという事です。
ですから「何故、答えが〇と思ったのですか」という質問に対して、
「法則性が見て取れるから」というのは、
刺激に対しての反応を「こんな感じ」と言っているだけで、
本質的なものを一切示していないという事ですね。
十万石まんじゅうを食って
「どんな饅頭でしたか?」に対し
「うまい、うますぎる!」とか
言った所で、それは十万石まんじゅうを示してはいないのと同じです。
十万石まんじゅうを食ったという刺激に対しての反応(うまい)を説明しているだけです。
(おまえ埼玉県民だろ!というのはバレる)
しかし、冒頭の〇と△の並びを見た瞬間に、説明は出来ないが
”何か”は感じたはずです(多分)
その何かに対しての反応は「このようなものでした」と説明は出来ます、
しかし”何か”そのものは決して説明出来ない。これが
思考が止まった瞬間に近いです。
その後の「こんな反応でしたという説明」は思考で行っているわけですが、
それは全部後付けであって、あってもなくてもどうでも良いものですよね。
語弊がある言い方ですが、本来の
「答え」は最初から知っているんですよ。
しかし「刺激に対しての反応の説明」、つまり
思考が働いている時の方が通常だと
思っているので、なかなか本来の”何か”に辿り着けないようになっているのですね。
前述の
「”何か”そのものは決して説明出来ない。これが思考が止まった瞬間に近いです。」も
思考による後付けですから本質的なものではありません。
「だったら堂々巡りやんけ!」と思うかもしれませんが、これもその通りで
思考を用いようとすると、絶対に堂々巡りになるようになっているんですよ。
カッコつけて言うなら、これは自分のまつげみたいなもので
目の前にあるのに見ようとして目を見開くと、見えないんですね。
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