かなり前の記事ですが、信号待ちしてたら "自己"が消えてびっくらこいた事がある、という
記事を書いたんですが、あれは別に何かの境地に
至ったとかではなく、
単なる病気だったんじゃ
ないかと思います。
しかしこの妙な体験について詳しく教えろや
みたいなメールはたまに頂きます。
感覚としては自己だと認識して、そこに
スポットライトを集中していたものが、
何かの拍子でスポットライトが外れて
しまったような感じでした。
ライトを振り回して見失ったものを探している
ような感じと言えます。
なのでビョーキ体験を経てからは
世界とか何だとかいうものは、ライトを
照らした時だけに現れる
非常に曖昧なものでは
ないかという事は何となくわかりました。
で、少し話が飛びますが、世界は曖昧な
ものであるにも関わらず、一定の法則というか
決まった動きしかしないのも、
また事実であります。
例えば雪が降っている時も、どの雪が何処に
舞い落ちるかも全て決まっています。
つまり世界の運命は全て決まっている、
のですが、ここでじゃあその運命を
決めているのは一体誰やねんという事に
なります。
それもやっぱりライトを照らした時だけ
現れる自己というか、意識なのであります。
例えば雪が降ってる所をイメージすれば、
イメージの中の雪が何処にどう落ちて
どう積もるかも全部イメージ出来ると思います。
つまり一定の法則は
今この瞬間に誕生したので
あります。
イメージの中の雪が何処に積もるか
全てコントロール出来るという事は、
世界の運命を決めているのはイメージしている
自己だという事です。
じゃあイメージじゃなくて目に見えている物も、
もしかしたらその辺のオッサンが
イメージしているものなのか?
我々はオッサンのイメージの中に
住んでいる住人なのだろうか?
井出というオッサンがイメージするのを
止めた時が、イデの力が発動したイデオン発動編
のような世界の終わりなのか?
結論としてはそうとも言えるし、
そうでないとも言えます。
何故かというと「世界は井出さんのイメージで
ある」というのを考えている自己というのも、
やはりイメージの産物だからであります。
つまり
世界には自己など居なかった、から
一周回って再び自己に還って来るのです。
これが水滴が大海を飲み込む瞬間であります。
今回はもう少し簡潔にしようかと思ってましたが
非常にややこしい内容になってしまいました。
まあ何でもかんでも全部曖昧なモンだと
思っていれば良いんですよ。
という曖昧な結論で終わります。
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