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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「スピリチュアル系の話で他人は存在しない、とか
自分も存在しない、という話はどう解釈すれば良いのか?
というメールを頂きました、ありがとうございます。

これは前の記事でも同じような事を書いたので短めに
説明しますが、ルビンの壺で顔が存在すると思えば
壺が消えて、壺が存在すると思えば顔が消えるのと
同じですね。

なので存在するしないは概念をどの角度から見るかという
だけで、"何が"存在しているのか?というのは大した
問題では無いです。"何をもって"存在しているのか?
というのが肝要であります。

自己とは何か?何をもって自己と認識しているのか?
という事です。
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前回の記事の補足みたいな感じですが、ルビンの壺に
おいて顔が存在するとなれば壺は存在しない事に
なりますし、その逆も然りであります。 

つまり意識だヘチマだと言っても自己が無い時にしか
意識は体現されないので、それだったら普段の生活に
おいては何も変わってなくね?と感じるかもしれませんが
それで良いのであります。

眼球は眼球それ自身を見る事は出来ませんが何かを見ると
いう事は眼球の働きなので、眼球を見れないので眼球は
存在しませんという事にはなりません。
物を見れるのだから眼球は存在する、という事に
なります。

なので極論を言えばあらゆるお祈りやメソッドは全て眼球
それ自身を見れないという事で間違っているんですよね。
しかしながら先の眼球の例えで言えば、
間違いイコール何かを見ている、となるので逆説的に
眼球その物として在る事になります。

なのでこれに気付けばお祈りしたけどダメだったとか
ナントカメソッドは効かないとかどうでも良くなるので
あります、何故ならそれらも眼球が見ているものだから
です。
「姿勢を正すと強運になるとかお参りに行って心を安定
させると幸せになるとかを実践しましたが、
それらも意識の内ならばただ単に姿勢を良くしている
私とか、お参りに行ってる私を見ているだけで虚無的に
通り過ぎていくだけなのか?」
みたいなメールを
頂きました、ありがとうございます。

これは肝心なのはその前段階というか、全てがルビンの壺
のようにお互いがお互いを成立させ合っている、
という事ですね。

例えば姿勢を良くするにしても仮に膝を伸ばしましょうと
いう話なら、ざっくり言うと大腿骨と脛の骨が合わさって
膝が存在するわけですよね。
つまり膝というのは存在しないとも言えるし存在するとも
言えます。これは見方が違うだけでどちらも正しいです。

膝関節云々は物理的なものですが、これはそのまんま
精神的なものにも当てはめる事が出来ます。

意識の内がどうのこうのと言うのも、意識というものが
あるから自己が出てくるわけで、これは逆も然りで
あります。つまり自己はいない、のですがそれは同時に
意識もいない
、のです。

ルビンの壺を見て壺は存在する、と言えば顔は
存在しなくなりますし、顔は存在するとなれば壺は
存在しない事になるのと同じです。

で、自己の方は色々と惑わされ苦しむ事が多いので
じゃあ意識の方にシフトしようぜ、というのがいわゆる
スピリチュアル的な考え
となります。

しかし意識というのは自己ありきな部分もあるので
「何が起きても意識が眺めているだけ」という虚無的な
感覚に陥るのは良くあると言えば良くある話です。

意識が眺めているだけというのは別に間違っては
いません。間違ってはいないのですが意識が眺めている
だけ、と定義付けるとじゃあそれを定義付けている
おまえは何者やねんとなってしまうので、結局は形も無く名前も付けられないものが唯一在る、という事になります。

ややこしいですが眼球は確かに存在しますが、
眼球そのものを見る事は出来ないのに近いですね。
今日ちょっと時間があったので公開中の映画
「シン・仮面ライダー」を観たんですけど、これは
シン・ウルトラマン以上に初代ライダーに思い入れが
無いとキツいんじゃないですかね。

なんつーか、尺の都合もあるんでしょうけど
「仮面ライダー」のテーマというかドラマを描けなかった
というか、取りあえず現代の俳優使って昭和の特撮を
再現してみました感だけという印象を受けました。

ゴジラとかウルトラマンて地球人から見たら人知を
超えた神様みたいなポジションですから、ゴジラが
暴れたりウルトラマンが怪獣と戦ってたりだけで
良いっちゃ良いと思うんですけど、仮面ライダーは
改造人間という異形の者の哀しみや自らの生みの親でも
あるショッカーに孤独な戦いを挑むという反体制的思想等
の人間ドラマこそが、巨匠・石ノ森章太郎が初代
仮面ライダーで描いたものだと思うので、
その辺をもうちょい上手くやってほしかったという
感じですね。




で、ここまで書いてて急に思い出したんですけど
10年以上前にウェブ連載されて現在は見れなくなって
しまった「ハイブリッドインセクター」っつー幻の
ライダー漫画は個人的に好きだったんですよ。
でもこれ知ってる人いますかね?多分当ブログの
読者層だと殆ど知らないと思うんですけど。

あらすじは1号やV3やアマゾンとかいった昭和ライダー達
がショッカーを倒すも、人類はショッカーすら倒した
ライダー達に次第に畏怖を感じ迫害するようになり、
それに対しライダー達も人類への抵抗を開始するという
ハードSFな内容でありました。

ただこれ描いてたのはプロの漫画家先生でしたが、
公式に許可を取っていない二次創作だったんで
やっぱり色々不味かったらしく唐突に打ち切られて
しまいました。

というわけでこれで一通りシン・何とかシリーズは
終わりなんでしょうか。個人的には直撃世代なんで
シン・宇宙刑事ギャバンとかやって欲しいなぁ。
「スピリチュアルでよく言われる今に在るとか何だとかは
結局は単なる概念であって本質では無いのでは」
的な
メールを頂きました、ありがとうございます。

これは鋭い、まさに本質を突いた質問であります。

今に在るだ何だといっても概念として捉えてしまうのが
殆どであります。
どういう事かと言うと、例えば今に在りなさい云々と
いうのを実践したとしましょう、それでまあ快適になった
とか幸せを感じたとか何だとか上手く行ったとします。

で、そうなると明日も明後日も今に在ろうとするわけ
ですね。しかしそれは、この前は今に在ったから何か
上手く行ったみたいな過去が基準になっているわけで
これだと今に在るんじゃなくて過去に在ることに
なります。

つまり過去にこれこれこうやったから上手く行ったとか、
以前に変なスピリチュアルブログを読んだとかで
今の行動を決めてしまっているわけで、
これだと過去に固執している形になってしまいます。

と言っても普段の生活はヘタしたら九割ぐらいは過去を
参考にして活動しているので、純粋に今に在るには
そういった普段の活動が大袈裟に言えば自分の意志では
なく
、過去に操られていると知れば過去から距離を
置くことが出来ます。

結局の所、変に知識も何も無い状態で在り続ける事が
一番簡単にして一番難しいという話でした。

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