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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「意識が本体ということは例えば暴飲暴食や散財しまくっ
ても大丈夫ということでしょうか?」
という感じの
メールを頂きました、ありがとうございます。

結論から言うと大丈夫ではないですよね。
意識が本体というか映画の映写機であるなら
映画本編で暴飲暴食した人物は不健康に肥るでしょうし、
散財した人物は貧困になると思います。

「意識最高や!何やってもOKや!」というのは
「何やってもOKや!」と言っている人物がいる、
というだけでそれ以上でもそれ以下でもないです。

ですから「これやって大丈夫かな?」とか疑問に思いつつ
暴飲暴食したりするのは意識云々からは外れています。
大丈夫かな?と思うなら止めた方が良いですね。

これと似たような話で「意識そのものになれば穏やかに
過ごせる、何かしら超越したような感じになれるの
では?」
と思う人もいるかもしれませんが
これも同じ事で「何か知らないけど超越した感のある人」
が出てくるだけで実は意識とはあまり関係無かったり
します。

「何やっても大丈夫」「何かしら超越」というのは
外部から何かを得る、という事ですよね。
つまり海の一部である波が形を変えただけの事を
「何かを得た」と解釈しているのと同じです。

そうではなくて暴飲暴食したとか散財したとか何か超越
したとかのイベントは、全て海が波として動いているだけ
ですから、それはそれで海の表現というか現れとして
認識するという事です。

もちろんそれらイベントに対して何だこれ気に食わねー
な、と思うのもまた海の一部です。

まとめるとあらゆるイベントは海の一部なので
生まれたというのも、死ぬというのもその一つです。
つまり我々は生まれてもいないし死んでもいない、
海が生まれたと感じる波を起こし、死ぬと感じる波を
起こすだけの話であります。そこに生まれたり死んだり
する"個人"は存在しません。


正確に言うと感じる事すら無いです、誰も受精した
瞬間とか死ぬ瞬間は感じないので。
つまり話を最初に戻すと"何も感じない"行動こそが
海としての行動という事になります。
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「自分というものはイメージというか想念というか、
一種の概念のようなものというのは何となくわかるが
頭ではわかっても実感出来ないから何とかして」
的な
メールを頂きました、ありがとうございます。

これは多少強引かもしれませんが、例えば目を閉じて
部屋の中を歩くと自分が今どんな姿勢かとか、
部屋のこの辺を歩いているなとかイメージしていると
思うんですが、要はこれ想像上の自己をイメージして
いるのと同じですよね。

これは故人を思い出してあの人はあんな感じだったとか
あいつはこんな体型だったとかイメージしている時とも
同じです。

つまりどちらも実は概念の中にしかありませんが、
目を閉じて歩いている時の自分のイメージや、
ふとした瞬間に思い出した故人は非常にリアルに
感じられます。

早い話が世界とか自己というのはこういったものです。
要は意識の中にしか無い、夢を見ているときの夢と
全く同じという事です。
「知らんさんのような自分が居ないとかヘチマだとか
感じた人は目の前で何かあっても常に感情も動かず
冷静なのか?」
というメールを頂きました、
ありがとうございます。

以前も書いた気がしますがスピリチュアル的な気付きだ
ヘチマだを得たところで、突然に泰然自若な人格になる
とか昨日まで乱暴な性格だった人が仏のようになって
しまうとかはありません。

元々泰然自若な人は泰然自若なままに、乱暴者は
乱暴者のままに在るだけです。 

「自分が居ない」から例えば目の前で人が死んでようが
爆弾が炸裂しようが ( ´_ゝ`)フーン みたいな感じになるの
ではなく、「居ない」からこそ意識に在る事が出来るので
あります。

どういう事かと言うと、例えば寝ている時はまさに自分も
世界も無い状態ですが、目覚まし時計が鳴ると目が
覚めますよね。これは目覚まし時計が先にあるのでは
なく、意識が目覚まし時計の音を作り、それを聞いて
起きるという感覚も意識が作ったものであります。
意識は常に在りますが、何か他のものが無いと意識自身を
認識出来ないので、意識は自身を表現するために他者を 
作ります。

つまり意識が意識そのものを意識するために、
何か文章で書くと意識意識うるさいですが
自作自演で世界を作っているわけです。

なのでスピリチュアル的な気付きを得た自分、というのも
意識という光源に照らされた意識のまた別の形に過ぎま
せん。

なので全ては光源として在る、というだけで
「自分は居ない」と聞いて、じゃあぶん殴られてるのに
「自分は居ないから平気!」という状態になるのか?と
いうのとは明確に違います。むしろ自分が居ないから
こそ意識は様々な感情を照らす事となります。






ですから私も何があっても冷静、とは程遠いですね。
この前も娘ちゃんの幼稚園のお迎え行った時に
たまたま娘が同じ組の男の子と手繋いでるの見ただけで
イラッとしたぐらいなんで。

これで娘が将来彼氏が出来たなんて言い出したら
卒倒する自信ありますよ、いやマジで。
この前の土日は義父母が来てたんですが
最近、厚労省によるワクチンの効果に対しての
データ改ざんだか何だかがあったそうで、反ワクチンの
義父がほら見たことかと勝利宣言しておりました。

「やっぱりあんなもん打ったらダメなんだよ、
俺の言った通りだろ!ワクチン三発も打った奴は
アホだよ m9(^Д^)プギャー」
みたいな感じでご機嫌でした、
まさにお義父さん大勝利。

私の周りでも三発目は打ってない人が多いですね、
というかワクチンに関してやや懐疑的になってしまって
いる人が多い印象です。

私のオヤジは歳も歳なんで三発目をブチ込んでましたが
四発目は打たないと言ってましたね、もう近所の
ご隠居連中も大して気にしていないようで普通に
その辺の店で飲んだり食ったりしているようです。

思うんですけど店内で数人でくっちゃべりながら
飲んだり食ったりしている時が一番リスクが高いはず
ですよね?
リスクの高い局面ではマスクを外して、換気の良い屋外で一人で歩いているようなリスクが極めて低い場面で
マスクをしているのはおかしな話です。
こんなFランでもわかる簡単なリスク評価も出来なく
なったとはオヤジも本当に耄碌したな。

メールでも「知らんさんはワクチン打ったんですか?」
いうのを今まで何通か頂きましたが、
私は実は一回しか打ってないんですよ。
あれ確か一発目打った後の三週間後に二発目だったと
思うんですけど、一発目打った後に懇意にしている
お医者さんに「二発目打つべきでしょうか?海外に行く
予定は当面無いですけどワクチンパスポート的なものは
どうなりますかね?」
みたいに相談したら
「ワクパスは政治も絡む話なんでともかく、感染抑止効果
自体は大して無いから一発も二発もそんなに変わんない
よ」と言われたので結局一発打ってそれっきりという
ある意味非常にレアな国民になってしまいました。

ワクチンに関しては医者の間でも見解が分かれている
ようですが、去年の時点で感染抑止効果は大して無い、
と言い切ったあのお医者さんはなかなか彗眼でしたね。

他にもRNAウイルスなんだから感染を抑えるとか、
ましてやゼロにするなんて絶対不可能、と騒ぎの当初から
言い切っていたのも当時の状況では一歩間違えれば
トンデモ医者扱いされるリスクもあったと思いますが、
普通に患者さんに伝えていたのもなかなかすごいと
思います。

ちなみに嫁さんにも「何か大して感染防ぐ効果無いみたい
だよ」と伝えましたが嫁さんは一回打った後に二回目も
打たないと何か損した気になるという謎理論で
二発打ってました。

で、その日の夜に副反応で熱出して寝込んで、回復して
から「副反応がこれだけキツいとか意味わかんない!」
これまた謎の八つ当たりを食らって大変に困惑しました。
意味わかんないのはこっちだぜ。
今回は多少主旨が違う記事ですが、前も書いたと
思うんですが私は視覚で得た負荷より知覚による負荷の
方が重要
ではないかと以前から思っています。

どういう事かと言いますとヒジョーに簡単に言うと
新型コロナで大量に死亡!という記事を見て、つまり
視覚だけの負荷で捉えるとこりゃエライコッチャで!
となると思うんですが、その大量死にある背景を
データその他で調べる、つまり知覚による負荷として
捉えていくと実は大量にくたばったのは80歳以上の
ジジババが殆どだったとして、そうなると大量に死亡と
いっても別のアプローチで考えることが出来るように
なりますよね。
これは別にジジババは死んでも構わんと言っているわけ
ではなく、あくまで簡単な一例です。

で、例を出しといて何ですがこの例の話とまた微妙に
ズレる話になりますが知覚とは意識によって生まれるわけ
で、意識は全ての背景にあるものです。
という事は同じような知覚負荷だったらある特定の種目の
訓練をしなくてもある程度何とかなってしまう
という事に
なります。
汚いオッサンがどんなに清潔にしても、オッサンは皆同じ
なので小汚いオッサンにしかならないのと同じですね
(?)

例えば私は小学校の時にチェスを覚えたんですけど
チェスで考える時に使う脳味噌と、算数の展開図って
あるじゃないですか、あれを考えるときの脳味噌は
何か同じ部分使ってるような感じ、つまり似たような
知覚負荷と感じたんですよ。

これが視覚の負荷だけで考えるとチェスを勉強するなら
当然チェス盤に駒を並べれば良いとなるんですが、
同じような知覚負荷なら展開図の問題やればある程度
チェスの戦略的な感覚って養われるんですよ、
まあサンプルは私だけですけど。

ちなみに早指しの場合は若い人は知らないでしょうけど
チクタクバンバンやってる時の知覚負荷がそっくり
なんですよ。
なので私は一時期チェスの練習の為に展開図解いて
チクタクバンバンやってたんです。

これと同じ話で今度は中学の時に麻雀覚えて、どれくらい
高い手に仕上げられるかの感覚は風呂に手を突っ込んで
大体の温度を当てる感覚、相手からリーチが来たときの
押し引きの感覚は「これは黒ひげ危機一発だ」と感じた
私は麻雀の練習と称して風呂に手を突っ込み
黒ひげ危機一発をやっていた事があります。

どうですか、何となく天才ぽい話に聞こえませんか!
これで今日からあなたも天才です、おめでとうござい
ます。









と言っても実際はチェスも麻雀も中途半端な強さで
終わってしまったので、あくまでも天才ぽいだけで
天才にはなれないと思います。
しかし視覚からの負荷だけではなく知覚負荷で物事を
捉えるという意味ではこれらの訓練は無駄では無かった?
のかなと思います。

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