「スピリチュアル系で世界は自分でウンタラカンタラと
言うのがよくありますが、やはりこういうのは視覚を
通じて得るものだと思うので仮に全盲の人でも同じ境地?
のようなものになれるのか」というメールを頂きました、
ありがとうございます。
これは鋭い質問であります。
ただ全盲の方でも特に問題は無いです、何故なら世界は
ウンタラカンタラというのはものすごくざっくり言うと
全て実在せずに
"機能の顕れ"だというのを知ること
だからであります。
例えばこれ前も書いた記憶があるんですけど、
関節という物体は存在しないじゃないですか。
肘だったら前腕の骨と上腕の骨がぶつかった所でお互い
曲がる機能のことを便宜上肘の関節云々と言って
いるわけで、肘とか肘の関節という物体があるわけでは
無いですよね。
それと同じで観るという行為も眼球の機能であり、
あくまで機能の顕れであってそこに物体があるわけでは
無いです。
存在しないものが存在するように振る舞うのが機能ですから、観るという機能が元から無い状態でも
スピリチュアル云々の場合なら特に問題は無いと言えば
無いです。
もうちょい話を深掘りすると
「私の自我がウンタラ
カンタラで困っている」みたいな話をする方もたまに
居ますけど、これも同じことで自我っつーのも機能の
顕れなわけですよ。
なので自我を消すとか落ち着かせるというのは前述した
関節の例えで言えば肘を消すとか膝を落ち着かせるとか
言ってるのと同じで、
無いものは消せないんですよ。
関節はあくまで機能であると知っても別に肘が
飛んで消えるわけでは無いですから自我の消滅というのは
機能であると知ることであって、自我そのものが消えて
無くなるわけではないです。
ですからだいぶ昔の記事でスピリチュアル的な気付き
みたいのを得てもいきなり聖人化したり
キャラ変するのは
あまり無いし、逆に
キャラ変し過ぎはヤバいかもしれない
というのを書いた気がしますが、これも肘の関節が元から
太い人が、肘は機能やったんやと気付いた所で肘が
細くなるわけではないのと同じです。
つまり"何も変わらない"のですが、認識は明確に
"変わっている"わけで、物体として存在するものは
何も無い、と知っている状態と言えます。
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