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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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これ読者の方から教えたもらったんですが、格闘家の
ヒクソン・グレイシー氏の著書「ヒクソン・グレイシー
無敗の法則」
という本にヒクソン氏がヨガを習っていた
時にヨガの先生から「動物になりきれ」と言われ
「動物だから目の前に人が立ってても何も評価しない、
分析もしない、ただ何かがいるのだけを感じるだけ」

いう鍛錬をしたそうなんですね。

で、最終的にヒクソン氏は鷹だか鷲だかになりきり
そのまま窓枠に一時間以上立ち続け、それをヨガの先生が
感動し涙を流しながら見ていたそうで「もう君に教える
ことは無い」と免許皆伝を頂いた、というエピソードが
書かれているそうです。

で、これはスピリチュアル的な修行ではないか?
どう思いますか?というメールを頂きました。

私はヨガの経験無いんでわかんないですけど、
この動物になりきるというのは余計な事を考えない訓練
という感じはしますね。
実際は動物も結構周りのものを評価や分析はしている
ので、あくまで動物になりきる云々は方便だとは
思いますがこれは動く禅、動禅という感じはします。

武道は一見無意味なように見える動きでも、その動き自体
に自然な脱力や身体の角度を要求することで結果として
あまり自我の介入が出来ないような動き、
つまりその練習自体が禅のようになっているものも
ありますね。

私もかなり昔にある合気柔術だか合気道だかの先生に
そのような説明を受ける機会があり、説明を聞く前は
何やこれ、こんなの喧嘩で使えねーじゃんとか思ってた
んですが、あくまでも習ってすぐに喧嘩に使うような
技では無くて修行者の自我の部分から修正していく意味が
あるのかと思い、ヒジョーに感心しました。

まあでもヒクソンが鳥のマネして窓枠に立ってて、
それをヨガの先生が感動しながら見ているって想像すると
なかなかシュールな光景ですね。

( ;∀;)       ㄟ( ・◇・ )ㄏ
↑先生         ↑ヒクソン
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「自信や自己肯定感は結局は幻想の自己を強めるだけでは
なかろうか」
的なメールを頂きました、
ありがとうございます。

これはその通りと言えばその通りであります。
自信とは文字通り自らを信じるわけですから
何か信じるものが無いと自我は存在出来なくなるというか
そもそもの土台を失います。

もっと言えば自信があるも自信が無いも同じというか、
例えば私は〇〇に自信があります!というのも結局は
自信がある自己というものに成り立ち、〇〇は自信無い
です!
というのもやはり自信が無い自己というものに
成り立っています。

そもそも自信というのは過去に何かしら上手くいったとか
下手こいたとかの蓄積されたデータに過ぎません。
つまり自信がある、または自信が無いは全て過去の
データを引っ張り出し、それをインストールして自己を
表現しているようなもんですね。

つまり極端な言い方をすれば自信を感じている時も
感じていない時もそれは全て自己では無いということ
ですね。

なので自信を求める必要も無いし、自信を否定する必要も
無いわけです。何かのアプリを入れたらスマホの待ち受け
が何かメチャクチャ自信ありげなオバハンになっても、
あるいは逆に自信無さ気なオッサンになってもそれは別に
スマホ自身では無いですから。
前回の記事について「マリオがゴールに進むなら
それは最終的には自我の死を目指すという事なのか?」

いうメールを頂きました、ありがとうございます。

これは鋭い質問であります。
死、つまりゲームのエンディングへ進んでいくマリオを
自己と同一視するか否かに限らず必ず自我の死は訪れ
ます。要はそれが早いか遅いかだけの違いで、
ずっとマリオと自己を同一化していれば死は恐ろしいもの
に感じるかもしれませんが同一化から離れてしまえば、
そりゃゲームだからエンディングまで行くやろという
感じでそのまま終わりを見届けるという形になります。

マリオと自己を同一化していると、マリオの冒険が
次から次へと大きくなっていくように錯覚します。
つまりゲームにエンディングがあるのだという当たり前の
事を忘れ、エンディング=死という概念を恐れるように
なっていきます。
こうなると今に在るもクソも無く、エンディングまで
行かない方法は無いものかとか言い出すようになって
しまいます。

マリオを見届けているのはまさに今に在る意識なので
すが、これだとそこからどんどん外れていく事に
なりますね。なのでエンディング拒否は却って今の意識
から遠ざかっていく事になってしまいます。

もう一つ例を挙げると、仮に今何らかの本を読んでいると
して、その本の厚さで物語がそろそろ終わりそうやなとか
大体読むのにこれぐらいかかりそうだなとか
わかると思うんですが、繰り返しになりますけど本を
手にとった最初から物語が終わる事はわかっているわけ
ですよね、それに対して特に何とも思わないでしょう。

いきなり本のページが増えるわけないし、この本は
これぐらいで終わりと最初から受け入れているから
ですね。

つまりこれがエンディングまで見届けている意識で
あります。
前に「スピリチュアルと相性が良い競技」という記事を
書きましたが、「サーフィンとかはともかく対人競技では
やはり難しいのか?」
的なメールを頂きました、
ありがとうございます。

これは対人競技でもあんまり関係無いと言えば関係無い
です。まあ前も書きましたが個人の勝ち負けが絡むと
どうしても最初は難しいかもしれませんが。

例えばルビンの壺で言えば壺と顔が同時に顕れているわけ
で普通は壺か顔かどっちかに焦点を合わせて、例えば壺が
私で顔が相手みたいになってますが、そもそもルビンの壺
自体は壺と顔が同時にあるからこそ完成しているわけですよね。

なので自分も相手もなくお互いが在るからこそ何かしらの
対人競技が成り立っているわけで、実は最初から自分も
相手も無く、競技というのはあくまで自我の中で行われて
いる幻想であります。

そうすると別に対人競技に限らずあらゆるものが
相対的に成立しているだけであって、実は実体は何処にも
無いという事がわかると思います。
「スピリチュアル的な気付きみたいのを得る方法は
無いのか」
的なメールを頂きました、
ありがとうございます。

これは例えると「眼球で眼球そのものを見る方法は
あるのか」
に近いですね。なので結論から言うと無い
と言えます。

しかしながら常に眼球には何かしら映ってるわけで
それを通して眼球は存在する、という事は確認できます。
ですからスピリチュアル的な何かを得たいとか何か気付き
たいとかも全て意識が変化したもの、と言えるので
結局は最初から特にやる事は無いんですよね。

何かしら天啓というか神秘体験的なものが必要ではないか
と思われている人もいるかもしれませんが、
神秘体験もそれはそれで一つの意識の顕れに過ぎません。

なので話を眼球云々に戻すと、一生懸命見ようとしないで
見えるものを見る、言い換えれば受動的になれば
眼球の活動は常に勝手に起こっているという事を
受け入れられると思います。意識は常にそこに在るの
ですが探そうとした瞬間に消える
わけですね。



この歌の冒頭なんか良い事を言っていると思いますね。

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