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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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スピリチュアル系で何かしらの疑問や問題を解決しようと
すると色々と袋小路にハマり結局何が何だかわからん
という感じになってしまう事は結構多いと思われます。
しかしその状態こそがある意味スピ系の本質的なものに
近づく瞬間でもあります。

まず何かしらの疑問、あるいは何かしらの問題を
抱えた場合、普通はそれらの解決策を模索すると
思います。それで解決すれば良いですが、
解決しなかったり更に問題が起こると人によっては
スピリチュアル系に救いを求めたりします。

で、大体ポジティブ思考だったり神を信仰したり
今に在ろうとしたりと色々ありますが
要はそれらも概念であるという事であります。
災いを祓うために神を描いたみたいな絵画や石像は多い
ですが、そもそも神という概念が浮かんだものは
何なのか
っつー事ですね。

つまり今に在るでも神でも何でも良いですが
それらの概念を問題の解決に利用しようとしている自分も
また一つの概念です。
以前から書いてますけど肉体・身体を持って何かを
しているのでは無いんですよ、身体を使って神の絵を
描いていたらその神の絵を描いている身体そのものも
概念という事です。

なのでこの時点で問題は全て気に病む事では
なくなります。何故なら問題を解決したい、と祈りながら
神の絵を描いている自己の身体もまた概念という事は、
問題を抱えている肉体との自己同一性から解放される
からであります。

つまり概念としての神から離れ、本来の神性を取り戻すと
いう事になります。
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「コロナワクチンを勧めていた◯身先生が最近になって
若い人は重症化しないから接種の推奨は早い段階で
辞めてた、と言っている。しかし当時は若者にも勧めて
いたしワクチンが原因と思われる健康被害も多い、
許せん。もし知らんさんの家族がワクチンで健康被害を
受けてもムカつかないのか」
という怒りのメールを頂きました、ありがとうございます。

これはフツーにムカつくと思いますが、しかし最近の
記事でも書いたように本質的には我々は身体では無い、
というのが肝要で、身体との同一化が最も強い同一化
あります。それ故にあらゆる危害に対して心配だとか
ムカつくというのは身体に危害が及ぶ、という
前提で成り立っています。

しかし身体では無い、のであるならばあらゆる心配の
殆どが無くなってしまうと思います。
この辺は話が長くなるので割愛して一言で言うと
寝ている時に身体を意識出来るか?という事なんですよ。
寝ている時にここは頭だとかここは腹だとか意識出来れば
ともかく、起きている時にしか出来ないはずなので、
そうすると身体とは意識に浮かんでいるだけ、という事に
なります。

では意識に浮かんでいるだけのモノなのに実在するのか?
意識に浮かんでいるだけのものが「私」なのか?という
問いを考えていくと身体との同一化が消える、かも
しれません。






余談ですけどワクチンに関してはまあ確かに尾◯先生は
若者にも推奨してましたね、当時は思いやりワクチンとか
宣伝してた気がします。
私は思いやりの無い人間なので結局一回しか打たなかった
ある意味レアな部類でしたが、今となってはもう
どうでも良い話ですね。

私の場合はワクチン云々より何つっても当時若者の行動を
制限してジジババを守る事に大多数の連中が賛成した事が
ヒジョーにムカつきましたね。
文字通り一度しか無い若者の青春よりヘタしたら
大型犬の寿命より早くくたばるジジババの余生を優先
した事で私はすっかり神の国日本に愛想を尽かし、
日本国民を捨て地球市民になりました。

でも当時4歳ぐらいだった娘には別にマスクなんか
しなくて良い、娘ちゃんが納得いかないならルールだと
言われても守らなくて良い、とパンク精神を教え込んだら
すっかりクソ生意気な小娘になってしまったので、
ちょっと失敗したかなぁ。
スピリチュアル系に関して様々な考察をされている
メールとかをたまに頂きますが、考察する事自体は全く
問題無いと思いますが本質的には考察される対象に
あまり意味は無いです。

前も書いた気がしますがそもそも何でスピリチュアルを
考察するかっつーと多分何らかの利益があるであろうと
いう期待からだと思うんですよね。
これが仮にスピ系にハマるとアホになりますとかだったら
誰も考察とかしないと思います。

何が言いたいかというとスピリチュアルを知ったり
それを考察したりするのも、一つのストーリーという事で
あります。
つまり気づきを得たとか覚醒したとかもストーリーの一部
であって、「誰が」覚醒したとかは大して重要では
無い
です。

最も重要なのはその覚醒ストーリーも鑑賞している者が
いないと成り立たない
という事と、鑑賞している者も
覚醒ストーリーが無いと成り立たないという事です。

つまり観ている者も観られている者もお互いがお互いを
補完しているというか、二つで一つなんですね。
なのでスピリチュアルを追求するとか考察する場合、
観ている側に強く傾いてしまいがちですが、
観られている側があって初めて成立しているという
事です。

何度か同じ事を書いてますけど結局はルビンの壺
同じで、顔でも無いし壺でも無いのですが
しかし顔も壺も確かに存在するかのように感じられると
いう事になります。
「動物にもいわゆる自我はあると思いますが人間よりかは
本能に近いと思うので、実はスピリチュアル的には人間
より動物の方が優れているのではなかろうか?」
という
メールを頂きました、ありがとうございます。

これは鋭い指摘であります、そもそも人間も動物の一種
ですが何が人間と動物を大きく分けているのかというと
人間の場合、そのまんま「自分は人間である」という
意識が人間たらしめていると言えます。

基本的に犬とか猫とかは人間側からの分類なので、
犬や猫は自分達が犬という生き物であるとか吾輩は
猫であるとかは思っていないはずであります。
しかし人間だけが明確に自分は人間である、という
フィルターを通じて世の中を観たり感じたりしています。
なのであらゆる行動や思考の基準が全てこの
「人間である」に集約しているとも言えます。
極端に言えば人間である、が前提になっている
スピリチュアル的探求は全て前提がおかしい
という事に
なります。

ですから取りあえず人間であるという事を置いくと
ですね、では一体誰が何の為にスピリチュアル的な
気付きだ何だを求めているのか?動物と人間の根底に
流れている意識は同じであって実は区別が無いのでは
ないか?そもそもスピリチュアル的な探求自体が
自分は人間であるという虚像から発した一人芝居のような
ものではないか?という事が感覚的にわかります。

ヨガの修練でも動物になりきるっつーものがあるそう
なんですけど、これももしかしたら人間という意識を
抑えるという意味もあるのかしらとも思いますね。
「自我が幻とわかったのでウンタラカンタラ
しかしその感覚が失われてしまったので困惑している」

的なメールを頂きました、ありがとうございます。

これはかなり昔にも書いた気がするんですが
基本的に感覚を拠り所にするのはあまり良くないと
思います。

理由としては例えば「今に在る」感覚を得たとして
次の日に何かトラブルに遭遇したので、つい先日
身につけた今に在る感覚で乗り切ったとしましょう。
まあ乗り切ったんだからこれで良いんじゃねえの?
と思うかもしれませんが、これだと今に在るんじゃなくて
昨日の感覚を持ち出してるわけですから過去に在る事に
なってしまいますよね。
逆に何か上手くいかなくてこれじゃあダメだと思っても
それもまた昨日の感覚を基準にしているのでやっぱり
過去に在る事になります。

なのでスピリチュアル系で感覚的な説明はよく出てきます
が、基本的にアテにしない方が良いです。
説明する方が書籍なり何なりに書く時は私が修行の果てに
体感した光は、とか、あの時に私は神を見たのだ、とか
の表現をせざるを得なくなるのはしょうがないんですが、
読む方がそれに振り回されるとあの時の感覚をもう一度
みたいな、いつまでも昔の恋愛引きずってるような感じに
なるので、スピリチュアル的な話を聞いてこれは感覚的な
何かを得る事だと思ってしまうと堂々巡りになる恐れが
あるのでその辺は注意した方が良いかもしれません。

結局は何かを得る事も無いし、何かを失う事も無いので
あります。

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