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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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この前超久々に「伝説巨神イデオン 発動篇」
観たんですが、これはスピリチュアル的な思想を
ロボットアニメで表現した見事な作品であると思います。
しかも玩具メーカーからの口出しが色々あったであろう
当時のロボットアニメ業界において、ロボットアニメと
しての魅力と神秘思想の表現を両立させたのは天才的で
あります。

影響を受けた作品として有名な「新世紀エヴァンゲリ
オン」
が挙げられますが、エヴァンゲリオンの方は
途中から製作者がトチ狂ったのか、あるいは何らかの
天啓を得たのか、とにかく路線変更の果てに神秘思想に
突っ走って今だに帰って来なくなった感があるのですが、
イデオンはある程度最初から製作者が狙って作っていた
と思います。

また、個人的には思想の表現もイデオンの方が優れて
いると感じます、まあこの辺は好みの問題ですが。
あと私は何となく戸愚呂100%のように見えなくも
無い小説版のイデオンのデザインの方が好きです。

エヴァンゲリオンはラストで主人公が人類を一つにする
人類補完計画を拒否して再び分裂した自我の世界を
望むわけですが、まあ私もキレイなお姉さんと一つに
なるならともかく、その辺の汚えハゲオヤジと一つに
なれと言われたらやはり拒否します。

自我からすると自分が(自我が)消滅すると感じるものには
猛烈な拒否反応を示すものであり、更にそこに自己の願望
みたいのが絡むと何か願望自体も消失してしまう感が
あり、そこが難しい(?)所なのかもしれません。

しかしそれは誤解であって、一つになる、という事は
もはや世界で起きる事に対し全て自他の区別が無くなると
いう事であり、要は宗教的に言えば神様であり、ゲームの
世界ならばプログラマーであります。

ですからこの状態だとあくまで自我の視点では神懸かり的
な直感や、神懸かり的な運に恵まれるという事であります
言い方を変えると願望では無く、あくまで事象の一部
して捉えるという事でもあります。

全て神様にお任せしろとか宇宙にお願いとかのメソッドも
ありますが、要はスタートが違うだけで目指す位置(?)
みたいのは同じという事ですね。
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基本的に我々の本質(?)みたいなものは全くゆらぎの無い
のようなものであり、これに何らかの振動が加わると
生じた波や揺れを自分以外のものとして認識します。

コップに入っている水を揺らして生じた波紋等に対して
水が、これは何者やこんな奴知らん、とか言い出したら
いやそれはおまえ(水)自身やろ、とツッコむと
思いますが、要はこれと同じです。
つまり自他の区別は本来存在せず、色々考えたりする
事柄も全て、プルプル震えているのに対して生じた
波に対して、水がこれは一体何やと思い悩んでいる状態
です。

下手な考え休むに似たり、という言葉がありますが
多くの情報を得るという事は水をやたらとプルプル
震わせて波紋を作りまくってああでもないこうでもないと
言っている状態に近いです、投資とかギャンブルでも
勉強しまくって情報も集めまくって混乱して何も出来ず、
とかよくある話です。

なので何のゆらぎもない水である事が最も完璧で
あります。


まさに明鏡止水、ちょっと古い作品ですがゴッドガンダム
もこれに目覚める事で強くなったではありませんか。

最初から完璧であるゆらぎの無い水を、わざわざ
揺らしまくって自己という概念を強くする事は無いと
いう事ですね。
相変わらず世間はコロナ騒動で騒がしいですが、皆様
如何お過ごしでしょうか。
私は以前、真冬なら東京だけで感染者は一日1500人
オーバーぐらい行くだろうと予想しておりましたが、
まあ大体イイ線いってんなとか思ってます。

といってもこの程度では全然少ないですね、
インフルエンザがピーク時に一日約10万人でしたっけ?
それを考えるとこれは全然少ない。
私が高校の頃に初代プレステが発売当初「いくぜ100万台」というキャッチコピーを出してましたが、もうここまで来たら
いくぜ100万人ですよ。

しかしながらここまでコロナにビビるというか、
コロナを気にかける人が多くなるとは正直ちょっと
予想出来ませんでした。

この前近所のジジババと話す機会があったんですが、
何かコロナ以外では死なない、
みたいな口調なんですよね。
ジジババだと他にも死因は多いはずなんですが、他の
リスクが高い行動はガン無視してひたすらコロナだけ
恐れてるのが何か逆に面白かったです。

以前も「願望とかの可能性を狭めないほうが良い」みたいな事を
書いたんですが、これも全く同じですね。
リスク要因を狭めまくる事でコロナだけをどんどん恐れて
しまうと他の要因を全く無視してコロナだけに縛られて
しまい、その結果ウイルスを封じ込めろとか全業種を
休業して完全にロックダウンしろ、でも給付金は
よろしく
とか極端な事を言い出すように
なってしまいます。

まあそういう事言う人はメシはウーバーイーツで、
生活必需品はアマゾンで注文すれば良いやとか言い出す
人が多くて、何で配達員やアマゾンの倉庫番の人は
働いている設定なのか?とか思いますが、それもまた
あまりにも狭めてしまった結果です。

ですからコロナから解放(?)されるにはリスク要因を
狭めず、「何があっても死ぬ」
ぐらいの心構えで良いと思います。
そうすると抽象的なものを抽象的なまま受け入れ、
理解出来るようになります。

前の記事にも似たような事を書きましたが、結局は
意識が焦点を絞り具体的な現象が起きているように
見せる
わけですから、逆に言えば焦点を絞らない、抽象的な
ものとして受け入れる事は現象が起きる前、無限に
委ねるという事に繋がるわけであります。









余談ですが最近はコロナ関連でキレる老人も見かける
ようになって困ったもんです。
この前出先でスーパー銭湯行ったんですけど、ジジイが
「脱衣所で喋ってる奴がいる!喋るなって張り紙しとけ!
脱衣所だとウイルスから逃げられねーだろ!」
とかフロントで
怒鳴ってるんですよ。

そりゃそうかもしれないけど、そこまでキレるなら
不特定多数が来るのがわかりきってる公衆浴場なんかに
来るなよ。
以前の記事であらゆる可能性を受け入れた方が良いよ
みたいなのを書きましたが、これを現在のコロナ騒動に
強引に当てはめると、コロナに過剰にビビっている人は
まさにこれを無意識に実践している状態であります。

もう何でもかんでも感染に結び付けて緊急事態宣言ガー
夜の街ガー、Gotoガー、ガースーガー
とまさに
あらゆるものに感染の可能性や恐怖を見出しています。
つまりこれは、あらゆる可能性を受け入れていると
言えるんですよね。あらゆる可能性を受け入れている
からこそ、全てがコロナ関連に見えてしまうという
事です。

ですからコロナ怖えええという願望(?)をちゃんと
実現しているんですよね、そんなものは望んでいないと
言うかもしれませんが、あらゆる可能性を否定せず
受け入れるとはまさにこの事であります。

これに加え逆に可能性を絞りまくってしまっているのが
コロナを封じ込めよとか撲滅せよというものですね。

基本的に確率が低いものをゼロにするというのは大変な
コストと労力がかかります。コロナで右往左往している
人は恐怖に関してはあらゆる可能性を受け入れてしまい、
封じ込めろとかの一見ポジティブに感じるものには
思いきり可能性を狭めてしまっています。

これは宝くじとかも同じで、一等が当たるというのは
確かにポジティブに感じますが、その為にどれだけの
コストがかかるかはあまり考えずにどんどん可能性を
狭めていく事が殆どです。

つまりコロナにビビっている人は、そのビビりの要因は
自らが見事にスピリチュアル的なメソッドを悪い意味で
実践してしまっている
事にあります。

もちろん感染に注意するという事は悪い事では
ありません、しかしながら知らず知らずの内に恐怖だけは
あらゆる可能性を受け入れて、ポジティブに感じるものは
可能性をクソ狭いものにしている事が多いように
思います。

これは通常の願望とかに対しても同じで、
何かを願う人ほど願望に関するネガティブを拡大して、
ポジティブを狭くする傾向があります。

であるならばその逆をやれば良いわけで、ネガティブに
感じるものは狭くして、ポジティブに感じるものは
拡大すれば良いのであります。
「ある程度シナリオみたいのは決まっているのに、
気付いたり何やらで認識が変わると何故願望とかが
叶ったりするのか」
というメールを頂きました、
ありがとうございます。

これは簡単に言うとありとあらゆる可能性というか、
展開を受け入れてしまうからですね。
願望が叶うとか何だとかの言い方は逆に硬直化させて
しまう恐れがあります。要は我々が願望云々を言う時は
大体が今の身体で、今の考え方で、今の状況で何かが
叶う
、という前提になっています。

つまり大きな変化、様々な可能性を自ら閉ざしている
とも言えるわけで、これでは同じ所に留まっているのと
同じです。

というわけで極端に言えば、仮にお金が欲しいだったら
あなたが男性だとしてもある日いきなり女装に目覚めて
ホステスとして大成功して大金持ちになるという可能性を
閉ざすべきでは無いという事ですね。まあこの辺は
ちょっと前に書いた「どうなっても良い」という記事と
同じような話になります。

で、少し話が逸れますが前述したように我々は
これが自分の身体・肉体だ、という意識を持ちながら
更にその身体を通してこうなりたいとかああなりたい
とか、怪我したくないとか思っているわけで、これだと
「身体」担当の心と「身体に気を使っている」担当の
二つの心
がある事になってしまいます。

つまり肝心なのは前回の記事でも書いたように
身体を離れる事であります。

身体だと感じているのは誰の身体なのか?
思考によって勝手に身体の状態を決めて、それが
事実であると思っているだけではないかという事
ですね。

身体を離れる事で当然身体という感覚も薄くなり、
身体に“気を使っていた“意識も薄くなり、そして
身体を通して体験していたと感じていたストーリーも
薄くなっていきます。そうすると果たして自己とは
何なのか?

最初から何処にでも居て、同時に何処にも居なかったもの
こそが本質であります。

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