前も書いたんですけど、個人的には「願望実現」という言い方に
すごく違和感を持っています。
と言ってもエゴ視点から見れば「願望実現」以外に呼びようがないので「願望実現うんたらかんたら」に
なってしまうのですが、そもそも「ナントカを実現します!」とかいうと未知のパワーを使って
何かすごい事をやる、みたいに考えがちなんですけど、別にすごい事なんてやる必要無くて、
むしろ
何も出来ない事に気付くことが肝心です。
とは言うものの、文章にしようとすると
「意図しましょう」とかになってしまうので
この辺をどうにか別の表現で書けないかと映画館で
「トランスフォーマーダークサイドムーン」を観ながら考えてました。
おかげで映画のストーリーがまるで頭に入ってきませんでしたが、
まあストーリーなんて
あって無いような映画なんですけどね。
話が逸れましたが、大体この「何かをやる」っつーのが曲者で、「何かをやる、する」っていうのは
その取っ掛かりになるものが無いと「出来ない」んですよね。
階段を昇るには、当たり前ですが階段が必要っていうのと同じです。
「願望実現」っていう概念は基本的に
「不足が無いと出て来れない」んですよね、つまり「エゴによる不足を見抜き、実現しましょう!」は「階段が無くても登れる事を見抜き、
登りましょう!」という妙な事を言っているのと同じなのです。
ですから「不足」を取っ掛かりにしてどうのこうのとやり始めるとなかなかうまく行かないんですよね、
まさに「実現」の裏側、ダークサイドとも言える
「不足」が”居てくれないと”実現出来ないという
パラドックスであります。「実現したい」=「不足が居てくれないと困る」ので、常に困った状況が
投影されてしまいます。
ではこのダークサイドはどっから出てくるのかと言うと、思考であり、それにまとわりつくエゴからです。
我々は無意識のうちにエゴによって「確固たる自分」というものを作り上げています、
そしてこの「自分」の判断で色々と思考しています。
まあこれも結局は
「自由意思で思考している」つもりになってるだけなんですが、
この辺はややこしいので今度にします。
例えばあなたが男性で、彼女と居る時に変なオッサンに絡まれて暴力を受けてしまったとします、
「男なら女の一人や二人守れなくてはダメだ、体でも鍛えるか」という「自分は男だ」というエゴに
「男なら女性を守れなきゃダメだ」という思考が出てきて「鍛えよう」という願望が出てきます。
つまり「自分は男なのに腕っ節が弱い」という「不足」が居るからこそ「鍛えたい」という願望が
出てくるわけですね。
しかし冷静に見ると、この願望は「自分は男」という取っ掛かりが無いと出てきません。
ですから今日からニューハーフに目覚めましょう、というわけではなく、
この
「取っ掛かり」は幻であり、いらないという事に気付くのです。
これはいざ気付いてみると意外と出来ないものです、何故なら「自分は男」とか「自分は貧乏」とか
「自分は会社員」とかの概念は(エゴにとっての)
絶対のアイデンティティみたいなもので、
それを放棄するという事はエゴにとって一大事だからです。
願望実現の最大のダークサイドは
「ある特定の願望を実現しようとする私」が知らず知らずの内に
出来上がってしまう事です。「貧乏から金持ちになる私」が居てくれないと困るのです、
「不幸から這い上がる私」が居るからこそエゴは安心して「願望実現」に取り組めるんです。この「ある特定の願望を実現しようとする私」が出来上がることはなかなか防げないものです、
エゴ視点だとどうしても「必要なもの」に見えますからね。
ダークサイドから抜けるには、ズバリ
「全ての取っ掛かりの放棄」です。
本当の自分は男でも女でもニューハーフでもない、若くも年寄りでもない、
地球人でも月からの使者でもない、完全な意識として在るだけだということに気付くのです。
多分、最初にこれを試みると猛烈な不安に襲われると思いますが、構いません。
完全な意識として在ると、「取っ掛かり」が存在しないので、
結局の所は満たされてしまって
いるのです。満たされてしまっているので、満たされた事が投影されるわけです。
「実現」とは「足りない何かを得る」のではなく「実現していた」事に気付いていく事なのです、
歩いているときに「そういや歩いてるよね」とふと気付くのに近い感じです。
つまり
「意図してるんだけど、意図してる事に気付くのは意図した後」なのであります。
まあこれもわかりづらい表現だと思うんで、また映画館でも行って頭を冷やして来ます。
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