二日ぐらい前のアセンションがどうしたこうしたの記事で、
心を指針にすると良くないみたいなことを書きましたが、
ここでいう「心」とはエゴとか思考とかを意味していると解釈して頂いて結構です。
で、少し話がややこしいのですが、心を指針にしてしまうとは常に心の声を
真実であるとして、それに従ってしまうことです。
例えば
「願望の実現のためにはエゴに気付きうんたらかんたら」と偉そうに書いてあるブログを
見つけ、「なるほど」と思えば、もはや「エゴに気付きうんたらかんたら」という
心の声に
無意識に従ってしまっています。つまり「心を指針として」しまっています。
「何々のためにうんたらかんたら」「ナントカメソッドでどうのこうの」は言ってみれば
全部後付けです。ですからぶっちゃけて言うと、そのまんま適用すると
クソの役にも立たない
事が多いのです。
ここで重要なのは
本質的な事に気付けるか否かであります。
例えば、基本的に我々が見ている世界は重力が支配しています。
地球に居る以上、重力からは逃れられません、歩こうが走ろうが支配されています。
つまり「速く走れるナントカメソッド」も元を正せば重力に支配されているということです。
結局、どうあがいても重力に支配されているという事実を認めた上でのメソッドということです。
それと同じで、
「現実(と思える)は内面の投影」という絶対的な法則(っぽいもの)を
知った上でのナントカメソッドなのです。かなりややこしいのでもう一つ例を挙げると、「モデルのように美しく歩く」という動作は
「私が器用に重心を移動させて行っているんだ!」というものではなく、重力に適応させて動作を
出現させているだけです。
すなわち「私が器用にやっている!」という「心」に従っているのではなく、
心でどうこうできない絶対的な重力の法則があるからこそ、結果的に「美しく歩ける」のです。
これと同じで「私がナントカメソッドやナントカ瞑想で願望を実現させているんだ!」ではなく
絶対的な「現実=内面」「世界=自分」があるからこそ結果的に実現したように見えるのです。
これが「心を指針にするのではなく、
心の指針になる」という事です。
絶対的な本質に気付き、心でどうこう思い悩むのではなく、それに委ねてしまうのです。
ですから度々書いている
「何かを意図して、テレビをつけて研ナオコが出てたらそれも既に
意図した世界の一部だ」も、見ている世界にいちいち
「心」を口出しさせないためのコツみたいな
もので、本来はどうでもよいものです。「リラックスすると重心や重力が感じやすくなりますよ」と
言っているのと同じで、一旦絶対的な真理に気付けば深い意味は無いのです。
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