なんだかんだで九州から帰ってきました、やはり葬式は疲れますね。
ヒマだったんで久々に会った親戚連中を観察していましたが、
結局それぞれの信念というか、まあ言い換えればエゴなんですけど
皆さんそれに強烈にしがみついているのだな、ということを改めて思いました。
この「強烈にしがみついている」というのは、見方を変えれば自分(エゴ)を
大事に守っているとも言えます。
例えば今回の葬式でいとこの一人(女性)と話した時に、そいつが
「最近太り過ぎで苦しい」とか愚痴ってきて、葬式でそんなデブの話は聞いてられんと
「そんな事は知らん」とスルーしたら軽くキレられたんですが、
結局これは「私は太っている」という概念にエゴがしがみついているんですよね。
エゴが大事に守っている「太っている」という概念を否定された、あるいはシカトされたと
感じるから、何かムカつくわけです。
「君は研ナオコ並みに痩せてるな」とか言っても
馬鹿にされてると感じて怒るでしょう。
これとは逆に「ああそうだね、
マツコデラックスにそっくりだぜ」とか言っても
当然怒るでしょうが、これもエゴが守っている「太っている」という事に起因しているわけです。
つまりどっちに転んでも「太っている」を
大事に握り締め続けているのであります
(デブが)(エゴが)
ですからマツコがナオコにトランスフォームする(エゴ視点からすれば”痩せる”)には
「太っている」という
概念を捨てれば良いわけです。
と簡単に言っても最初は困難でしょう、何しろ鏡を見ればマツコデラックスが立ってるわけですから。
ただ、「太っている」という概念に意識を向けない事は出来ます。
前も書いたと思うんですが結局の所、あらゆるものはそれを認識しないと存在出来ません。
仮に
世界中の人々の顔面が佐々木希だったら、もはや美人もブスもデブという概念も
存在出来ないのと同じです。
佐々木希の中に研ナオコやマツコデラックスが紛れてきて、
それを認識した瞬間に
世界に「ブス」や「デブ」という概念が誕生するわけです。(研ナオコファンの皆さんに断っておきますが、あくまで佐々木希との比較であり
研ナオコが
ブスの代名詞というわけでは
断じてありません)
逆に言えば研ナオコやマツコデラックスが紛れていても、それを認識しなければ
ナオコとマツコは存在出来ないのです。
で、何回も書いているように「世界=自分」であり、ゲームで言えば
プログラマーが自分なのですから
世界の設定を決めるのも自分です、
設定を決める事を放棄したら暴走したプログラムに
苦しめられるのはプログラマーなのであります。ですからマツコがナオコになるには「太っている(マツコ)」という概念に意識を向けない事です。
これは
現実逃避ではありません、現実逃避とはマツコの存在を認めつつ目をそらすだけです、
そうではなくて
最初からマツコはいなかった 事に気付くのです。
気付くというか、意識を向けなければ存在しないという事を実感してください。
その内、「太っている(マツコ)」という概念は捨てられます(消えます)
「太っている(マツコ)」概念が存在しない世界になったのですから、あとは嫌でもナオコになります。
ならざるを得ないんです。というわけで私も
マツコデラックスそっくりになったいとこが存在しない世界を設定しました。
これで今度は、いとこが急死するかもしれません というのは冗談です。
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