源泉掛け流しが本体であってどうちゃらこうちゃらというのが昨日の話でしたが、
この「本体」を感じるのは思考で捉えるのは難しいと思われます。
結局、なんで難しいかっつーと、どうしても
「外部」に証拠を探してしまうからなんですよね。
例えば「牛丼を食う」という行為は「肉の食感」とか「匂い」とか「味」とか
色々な要素を「証拠」としてかき集めて初めて「俺は牛丼を食っている!」となるわけですが
よく考えると食感だの味だの匂いだのって、
別にテレビ見てようが横になってゴロゴロしてようが
「感じる」(創る)事は出来ますよね。つまり「牛丼を食ったから」「食感や味や匂いを感じた」のではなく
「まず最初に食感や味や匂いを創れるからこそ」「牛丼が出てくる」のです。
牛丼というものは、あくまでも味や匂いを創れる事の証明として
ついでに出てくるものなのです。
それが普段は主客が反対になってしまっているので、牛丼を食わないと何か証拠が無いような
不安に襲われて証拠探しの旅に出てしまうのです。
少しややこしいですが、この創っている
「何か」が本体であります。
思考で証拠探しをして満足しても、結局は全てが終わったあと
(つまり牛丼を食ったあと)なので
思考で本体そのものを捉えるのは、非常に困難なのであります。
様々な願望実現メソッドが効果を発揮したりしなかったりも、この辺に原因の一つがあるのでは
なかろうかと思います。
つまり
自らがメソッドを創り出しているのに、わざわざ証拠を探しに行って
「証拠が見つからない、これじゃダメだ他のメソッドを探そう」となってしまうわけです。自らが創造の根源である事に気付けば、もうメソッドなんて何でも良いのです。
というか
自分自身がメソッドそのものだったのです。
映画「猿の惑星」で地球に帰ろうと思っていた主人公がラストで「ここが地球だったのか!」と
知るのと近いです
(ちょっと違う?)まあ猿の惑星は置いといて、今回の記事は理解が困難かもしれませんが、
一度気が付けば文字通り全てが引っ繰り返ると思います。
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