昨日の記事は
真っ二つに評価が分かれました。
これほど「何が何だかさっぱりわかりません!」というメールと
「全てわかりました!もうこんなふざけたブログは読みません、さようなら」というメールに
きれいに分かれたのはブログ開設以来初めてであります。
まあ昨日の記事の要約は、はやい話が
「証拠を探すな」っつー事です。
常日頃から我々は常に「証拠」を探しています。
普段歩いているのも「地面に足がついている感触があるから」とか、このブログでも前に
書きましたが「空間が迫ってきているから」とか、色々な
エゴを納得させるための証拠を
探しています。
まず最初は肉体的な感覚から「証拠」を探し、その後は肉体を離れて空間に「証拠」を
探そうとします。で、その後さらに
電波系になると認識が変わっていくと、
遂には「証拠」を求めなくなります。
「証拠」を求めなくなるとどうなるか、それは
私の消滅であります。
「私は男である」と言いながら「証拠」として股間を見ても、それを「証拠」として
見ないのであります。
認識が変わらないと、この「証拠」を強烈に求めます、というより
無意識に作ります。股間からチンチンが生えている→これは私の股間である→故に、私は男なのだ。
というように
「証拠」を次々と探しまくってエゴを安定させるわけです。ですから一切の「証拠探し」を止めてしまう事です。
願望実現メソッドとかやってると、どうしてもこの「証拠」を探します。
昨日の牛丼云々でもそうですが、「牛丼が食べれるメソッド」をやっても
「でも俺、今は牛丼屋にいない!ドンブリも持ってない!メソッド成功してないじゃん!」と
なってしまいます。
これは正確に言うとメソッドの成功=何か証拠があるはずだ という
強烈な思い込みに
よるものです。
角度を変えて言うと、例えばウンコしたいと思って便器に座ってブリブリーと音がしたら
「俺はウンコしたんだ」と思います、ブリブリーを
「証拠」として認識するからです。
実際は肛門からウンコがコンニチワする瞬間なんて見てないのに、です。
つまり、普段の動作にせよ浮かんできた願望にせよ、無意識にそれに対しての「証拠」を
勝手に想像し勝手に求めているのです。
「ナントカメソッドをやっているんだ、でもうまくいっているという
”証拠”がどこにもない。
やり方が悪いんだろうか」
じゃあ証拠探しなんてやめれば良いじゃないですか、あらゆるものから「証拠」を
求めなければ良いのです。
「あれ?
でも以前、願望が叶っているから研ナオコがテレビに出てるんだとか言ってたよね?」
その通りです、つまり
研ナオコメソッドはこの「無意味な証拠探し」を止めるためのテクニックなので
あります。
大体証拠探しってメソッドに嵌まってるほど止められないんで、だったら何でもかんでも証拠に
しちまえという逆転の発想から生まれたのが、研ナオコメソッドの真の狙いだったのです。
昨日の記事の真意はこの辺を読み取って欲しかったのですが、あまりに素っ気無い書き方が
過ぎたかもしれません。これからは全ての証拠探しを放棄してみましょう。
日常の動作から何から何まで証拠を探さなくなった時、長い長い旅が終わるかもしれません。PR