ここ最近は証拠を探すなとか何だとか書いていましたが、
テメエ何言ってるかよくわかんねーよという方は、願望がどうしたこうしたは置いといて、
「生きている」という証拠探しも止めてみたらどうかと思います。大体
何を根拠に我々は生きていると思っているんでしょうか?
手のひらを太陽にすかしてみれば真っ赤に流れる僕の血潮だからだ!という方も
いるかもしれませんが、とりあえずそういったあらゆる根拠を一旦疑ってみるのです。
あらゆる根拠を疑ってみると、実は我々は最初から生きてはいないという事に
気付くかもしれません。 では我々は既に死んでいるのか?というと別に死んでもいないと
思います。
死んでいるという根拠も、やはりはっきりしないからです。こう言うとちょっと宗教チックですが、我々は生死を超越した単なる
「無」だったのであります、
以前
ムームー星人とかいうタイトルで書きましたけど。
そもそも「生死」という概念自体が勝手に作り上げたのものです。
生きてもいないし死んでもいない、しかしながら何かに意識を向けると、意識を向けたものが
具現化していただけだったのです。これは自分の肉体とか思ってるものもそうです、意識を向けなければ肉体は存在できないのです。
「俺は呼吸しているから生きているよ」というのも「呼吸」という概念に意識を向けたから
呼吸が出てきたわけで、そこから「生きている」という概念に勝手に結びつけて
いかにも結論付けているだけです。
この辺が、昨日ちらっと書いた
願望の実現とそれまでの過程は実は何の関連性も無い、
という事にも繋がるのですが、今回はその辺の話は省略します。
さらに記憶だの時間だの何だのといった余計な要素がくっついて
「偽りの私」(エゴ)が
誕生して、いかにも俺が主役だみたいにエゴが振舞っていただけだったのです。
だからこのブログも意識を向けたから出てきているだけで、意識を向けなければ存在しないのです。
そう、このブログの著者なんて最初から存在していなかったのです。
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