「スピリチュアルでよく言われる世界は自分であるとか
も、結局は何があっても念仏を唱えるように自己は存在
しないという事を意識するだけなのか?ぶっちゃけると
何も気にすんなという事か?」というメールを
頂きました、ありがとうございます。
まあそうですと言えばそうなんですけど、
結構誤解されやすいのは例えば歩いてる時に車が
クラクション鳴らして走ってきたら普通は退きますよね。
ここで全ては自己である云々とか言って何もせずに車と
激突したらそれも有りですが傍から見たらアホっちゃ
アホです。
なので「世界は自分云々」を感覚として落とし込む(?)
には取りあえず内面と外面に分けると多少は何となく
わかるかもしれません。
内面つーのは自分の中の意識とか感覚ですね、
つまり
「世界は自分であった!」「自己は存在しない」とかの、ある意味電波系が内面となります。
対して外面とは文字通り外、先の例で言えばクラクション
鳴らしてきた車とかがそれになります。
で、内面と外面がぶつかると
ほぼ確実に外面が勝ちます。
そもそもスピリチュアルに目覚める切っ掛けは
外面の出来事から入るのが多いと思われます。
例えば今月ピンチ、何とかしてお金が入らないかとかで
タイミーとかやれば良いのに何故か怪しいスピリチュアル
ブログを見つけてしまって「世界は自分であった」とかで
内面のステージを上げる(?)事で外面の問題、
この場合カネが無いとかをスルーする、或いは臨時収入を
期待するとかになるのが多いケースです。
しかしこれは内面と外面に分離したまま内面を強化しよう
という試みなので、話が戻りますが内面と外面がぶつかる
と外面が圧倒的に強いのでほぼ確実に外面が勝ちます。
例えば今に在るとか何だとかで精神の平穏を手に入れ
臨時収入も入ったとしましょう。しかし外面というのは
目まぐるしく動くので必ず何かしら問題(と感じる)
が現れます。
で、これに対して「更に今に在ろうとする」とか
「すごい瞑想で宇宙と一体になる」とか
内面を更に強くしなければと思ってしまうのが誤解の
元です。
このまま行くと話がややこしくなるのですごく簡略化
すると、要は喧嘩する際にガードを固めながら
「今に在る云々」とブツブツ呟いているより
ノーガード
でも「かかってこいや」と思っている方が相手が
殴りかかって来た時にどっちが反応しやすいかという
話です。
これは絶対に後者で、理由は前者は
外面からの刺激に
対して無理矢理内面を平穏にしようとしているからで、
前述した通り内面と外面では外面が強いので
これは確実にブッ飛ばされます。
それに対し後者は外面と内面がある意味統一され、
まさに喧嘩という現場の
"今に在る"のでこれは相手の
パンチにカウンターが取れる可能性が高いです。
つまり内面と外面を無意識に自我で分けてしまっている、
という事を知れば実は最初から誰もいないし
何の争いも起きていないんですよ。
ですから何も気にすんな以前に、そもそも気にする存在が
最初から居ないのであります。
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