スピリチュアル的ないわゆる気づきみたいのは
経験を積み重ねていく事で何かしらを掴むみたいな、
ドラクエのレベルアップみたいなイメージがあるかも
しれませんが、実際はそうではなくて何か知らないけど
認識が変わる的な感じになります
(多分)そもそも経験を積んだと感じているのは何か?っつーと
自我がそう感じているだけで、前回の記事とも少し
被りますが
継続性を感じているのは自我だけなんですよ。
つまりこれだけスピリチュアル系の書籍を読んだとか
ありがたいお経を唱えたとか神社にお参りしたとか、
これだけやったからこう、みたいな経験値を積んでいると
自我が勝手に判断しているだけです。
この経験を積んでいるという(はず)という判断の
厄介な所は、例えばあるスピリチュアル的なメソッドを
行ったら何か上手くいったとしましょう。
そうするとそのメソッドなり何なりを更に強化するとか
新たな手法を研究するとかの方向に行きがちなわけです。
要はベストな状態、何をやっても上手くいって
願望入れ食い最高や!に近づいているはずなのだという
判断を自我がしてしまうわけです。
そうではなくて語弊がある言い方ですけど、
そんなものどうでも良いんですよ。
意識が何を臨在させるかはわからないので、
何か朝起きたら腰が痛えとか頭痛がするとか便秘気味
だとか色々体現すると思います。ここで自我が「経験を
積んだし上手くいった事もあるのに」と騒ぎ出すと
腰痛や便秘を体現している自分は最高の状態ではない、
つまりそれは何かを間違っている、何かが違うのだと
喚き出す事になります。
何かややこしい話になってしまいましたが要は自我が
求める
「あるはずの最高」は存在しないんですよ。
そうではなくて
「最適な行動」を取れば良いだけの話で、
腰が痛いなら湿布貼るとか便秘ならカンチョーする
とか
"普通に"過ごせば良いだけであります。
「それじゃあ何も変わってなくね?」と思うかも
しれませんが意識というのは肉体が生まれる前から
ずっと在るわけで、何も変わっていないというか
変わりようが無いんですよ。
雨が降ったりカミナリが落ちたりクソ暑かったりしても
空は空のままで変わらないのと同じで、
何の経験も何の状態も必要としないのであります。
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