スピリチュアル系でよく言われる
「世界はあなたが
作ったからウンタラカンタラ」というのがありますが、
これだと
「では何故に私はこんなひどい世界を作って
しまったのかウンタラカンタラ」となるのは当然と言えば
当然と思われます。
これはややこしい話になりますが「私」っつー概念が
絡むからなんですよ。
私という概念は、取りあえず適当な言葉が見つからない
ので
意識としておきますが、「意識」が「私」という
思考でも感情でも良いですが、とにかくそいつと
出会うから生まれるわけであります。
という事は出会わなければ「私」を通じた世界という
ものも出て来ないわけで、そうなると世界はただ在るだけ
となります。つまり私が作ったもヘッタクレも無くなる
わけですね。
ただこれだけだと意味不明なので感覚的にはややズレます
が、強引に例をあげると皆さんも小学生ぐらいの時に
読んだ記憶があるかもしれませんが、
「最後の一葉」て
作品がありますよね。
ざっとあらすじを言うと病気だか何だかに罹っている
女性が病室の窓から見える葉っぱを見て、
「あの葉っぱが全部落ちたら私死ぬで」とか
ちょっとメンヘラぽい事を言い出したのに対して、
画家のオッサンがアホなことぬかすなみたいに
台風が来てる夜に壁にリアルな葉っぱの絵を描くん
ですよ。
それで翌朝になっても葉っぱが落ちていない(絵だけど)
のを見た女性が希望を取り戻して元気になるみたいな
話ですね、 確か画家のオッサン死ぬんだよなこれ。
で、何が言いたいかというとこの物語の女性は葉っぱと
「私」という概念がバリバリ出会っているわけですよ、
でもこの女性以外の人は別に葉っぱが吹っ飛ぼうが
何だろうが知ったことないじゃないですか。
つまりこの全てにおいて知ったこっちゃない状態・
知らんモンは知らんが
「意識」が何者にも出会っていない
状態に近いと言えば近いです。
大体意識は最初に身体というか、身体意識的なものに
出会ってそこから「私」を形成します。
最後の一葉に出て来る女性を例にあげると意識が身体と
いう概念に出会い、この身体病気やんけという概念に
出会い、病気の私を形成し、葉っぱを見たらあれも
私だから葉っぱ全部落ちたら死ぬ、何故こんな世界を
作ったとか言い出すわけです。
まあ、ややこしいというか例があまり良くないん
ですけど、取りあえず世界を作ったら作ったで
放置で良いんですよ。
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