このブログで何度か表現を変えて書いていますが、恐らく理解し難いのが
「何もしない」という
部分だと思うんですよね。
どんな事かっつーと、はやい話が高い所から低い所に行きたいんだったら
飛び降りれば良いわけで、落ちている最中に手足をバタバタさせたりヘラヘラ笑ったり
いきなり歌い出したりしても落ちるモンは落ちるわけで、
特に何もする必要はないですよね。「何もしない」はこの感覚に近いものであります。
角度を変えて言えばですね、とりゃーって高い所から飛んだ時点で、下に落ちて着地するのは
決まってるわけですよね。
つまりとりゃーっていうのと地面に着地するのって、中間の落ちている部分を
端折っても問題無いっつー事です。
とりゃーって飛んだ時点で「着地した私」にならざるを得ないんですよ。つまり「今、落下してる途中」っていう証拠を探さなくて良いのであります。
証拠を探さないっつー事は前も書きましたけど。
とりゃーの時点でもう「地面に着地する流れ」そのものなのです。
「地面に着地
しようとしている流れ」じゃなくて「地面に着地
する流れ」である事に
注意してください。
もうとりゃーって飛んじゃった以上、嫌でも何でも着地しちゃうんです。
で、このとりゃーって飛ぶという動作がいわゆる願望と言われるものです。
例えば歩こうって願望を抱いたらもう重心が前に行って足を踏み込んでとか
色々やってると思うんですよね。つまり「歩こうとしてる流れ」じゃなくて
「歩いちゃってる流れ」になってるわけです。
要は全部これと同じです、なんかしようとか思ったらもう
「そうなっちゃってる」のです。
ウンコやオシッコしたいと思ったら
もう漏れちゃってるのです。
我々は実は生まれながらの
尿漏れ、源泉掛け流しではなく
源泉垂れ流しだったのであります。
さらに突き詰めていくと、歩くって行為は我々が認識できる世界の重力によって
可能になるわけですよね。ということは「
歩こう」とか以前にもうそれが常に可能な世界に
最初から居るんですよ。これが無重力状態だったらプカプカ浮かんで歩けないですよね、多くの人は
わざわざ「いつでも歩ける」世界を認識しているくせに、何故か「歩くにはどうすれば良いのだ!」と
悩んでいるだけなのです。つまり
「認識しているんだけど、認識している事に気付けない」とも言えます。
で、その「いつでも歩ける」世界を創り出したのは、このブログの著者である私ではなく、
隣のオヤジでもなく、ましてやすき家の社員でもなく、
他でもないあなたであります。
つまりあなたは何の事は無い、
最初っから自分で何でも出来る世界を創っていたんです。様々な願望っていうのは全部あなたが創った世界に準じたものしか出て来れないわけで、
出て来れるって事は「歩く」と同じでそれが既に存在しているから出て来るわけです。
だから周りの世界は全部自分であり、
全部あなたの仲間であり味方なのです。
まあ敵とか味方って概念をつけると、またああだこうだエゴが騒ぐと思いますが(あんな憎い人
私の仲間じゃありません!とか)そういった
表面上の概念なんてどうでも良いんですよ。大事なのは「認識しているけど、認識していない」事に気付く事です、
希望通りの世界は、もう目の前にあるじゃないですか。
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