「源泉掛け流しから湧いてくるものとそうでないものを区別するには」みたいな
メールを頂きました。ありがとうございます。
結論から言うと、
区別とかどうでも良い、という非常にアバウトなものです。
まあこれだけだと
身も蓋も無いので、もうちょい書くと、以前も書いたと思うのですが
「何もしない」状態がまさに源泉掛け流しそのものであります。
「何もしない」と言っても普通にご飯食べたり、トイレ行ったりしますよね。
後付で「あの時トイレに行ってウォシュレットを全開にしたのは源泉から湧いてきたのか」とか
言えますが、これは本当に単なる後付です。
結局思考で後付していかないと、
実は行為その物も存在しないのであります。
「あれ?でも何もしないんだからトイレとか行かないよね?それだとトイレ行ってるじゃん」と
思うかもしれませんが、「何もしない」は別に寝たきりになれとかずーっとボケっとしてろとかの
意味ではありません。
「何もしない」とは思考で後付をしない、つまり行為自体が存在しない、もっと言えば
行為者そのものが存在しない事に気付くということです。
昨日の話と少し被りますが、
「あれもこれも嫌だわ、いやああああ!」となるのは
嫌なことを体験する行為者=自分が存在するという思い込みからであり、行為者がいなければ
自らが創造した世界を見守っているだけで良いのです。見守るという表現は少々語弊が
ありますが、
現実っぽく見える世界と、普段知覚できない世界の狭間に在るみたいな感じです。
まあ狭間だの寛平だの言い出すとまたややこしくなるのであまりグダグダ書きませんが、
何かを見たり何かを話したり何かを聞いている行為者は、実はいないという事であります。
「え、じゃあ私の願望はどうなるのよ、いやああああ!」となるかもしれませんが
行為者がいない、と言ってもご飯食べたりトイレ行ったりしてるって事は、全部後付で
「ご飯食べてる」とか「トイレ行きました」って言えますよね。
つまり
全部オートマなんですよ、
願望がどうなるもクソも全て流れに乗っていれば良いのです。
願望が実現するまでのタイムラグが待てませんとかそんなのもどうでも良いのです。
「時間」を感じている行為者がいると思い込んでるからタイムラグがどうしたこうしたと
なるわけです。でも行為者なんていないんだから時間もクソも無いでしょう。
今、全てが在るのです。というより
全て在って良いと許可を出すことです。
ここで唐突に
許可を出す繋がりです。
私のいとこの一人がずっと相手の両親に結婚を反対されていたらしいのですが、
先月辺りにとうとう許可が出たそうであります。
というわけで結婚式に出席するため
青森まで行く羽目になったので2、3日更新はお休みです。
まあ結婚式と言っても身内だけの披露宴みたいなモンらしいですけど。
PR