度々書いている「思考を止める」という事ですが、何故思考を止める事が
大事なのかと言いますと、エゴは
思考をとっかかりにして活動を始めるからです。
大体、痛いとか苦しいとかの一般的に「ネガティブ」とされる思考にくっついて、
起きてもいない未来の事や、後悔している過去へとタイムスリップして
「こうなると嫌だから」、あるいは「もうこうなるのは嫌だ」
「だから~をしなきゃいけない」という思考へと導きます。
「だから、瞑想しなきゃダメだ」「だから、神に祈らないとダメだ」
「だから、ナントカメソッドをやらないとダメだ」
「だから、このブログを読まないとダメだ」
(一番ダメです、すぐにやめましょう)前もちょっと書きましたが、エゴに「今」を明け渡していると、結局そこを起点にした
未来も過去も、エゴによって操られた、エゴにとって心地の良いストーリーの中に
いる事になってしまいます。これは無理矢理ポジティブシンキングをして
表面上は希望に満ちた思いで満たしても同じ事です
(希望に満ちて未来に向け頑張る、という
エゴが用意したストーリーにいるだけです)語弊がある言い方ですが
夢も希望も無いんですよ、夢も希望も
エゴが消滅しないために用意したおやつみたいなもので、それに釣られると
見かけは
ポジティブに頑張ってる感じになるのでやっかいと言えばやっかいです。
「今」をエゴに明け渡さなければ、夢や希望が生まれる余地はありません。
何故なら「今」に不足は無くなってしまっているからです。不足が存在するから「それらの不足を解決できる!」という「夢」と「希望」が生まれるわけで、
不足を感じなければ夢も希望もクソもありません。(ついでに「不足だらけだ」という
「絶望」も
生まれません)思考が止まると、不足も無く、夢も希望も絶望も無い世界が見えてきます。
それは非常に味気ない世界なのでしょうか?違います、とても愛に満ちた
(この表現も
伝わりにくいからあんまり使いたくないんですけど)世界です。
エゴに操られている時は、ゲームで言えば
プレイヤーの立場です。難しい面をクリアしたり、
強いモンスターの尻尾を切ったり、皮を剥いだり、生肉を焼いたりする事に喜びを見出します。
(実際は喜びを見出しているのはエゴです)
でもクリアできなかったり、逆にモンスターに踏み潰されたりして、うまくいったり、いかなかったり
の繰り返しです。今度こそクリアするぞという希望、あるいはもうこんなクソゲーやってられっかという
絶望が現れては消えていきます。
エゴに気付き、エゴからの解放を垣間見ると、今度はゲームをアップグレードする
プログラマーの立場へと視点が変わります。プログラマーにとっての喜びは、自分の創った
ゲームの世界が
完璧に調和している事です。そこには希望も絶望もありません、
ただ純粋に「在る」だけなのです。そこに無常の喜びと幸せが感じられるのです。
ですから「今」考えている事は本当に純粋な「今」なのか注意してみて下さい。
知らず知らずの内にエゴが作り出したストーリーを生きていないか
感じてみる事が大事です。もしも「エゴが作ったストーリーの中にいる」と気付けたら、
もうそれで終わりです。
幻に気付けたら、もう幻には何の力もありません。PR