前回も書きましたが、何故理屈付けを常に行なってしまうのでしょうか。
それは結局の所、「私」を強固に守るためです、何だかんだ言っても「私」を手放し、
破壊するのは凄まじい恐怖であり、やっぱり猫が好き、じゃなくて
やっぱり「私」が好きなのであります。
「私」がいなくなりました、やったーという経験をしたところで、
じゃあこれからバシバシ願望を叶えるでござる、となってしまうと、まさに
元の木阿弥って奴です。
結局「私」が消えただの何だの言っても「願望をバシバシ叶える私」「願望が既に叶ってる私」は
強固に残っています。というか
これだけはゆずれねえ、となってしまっています。
「私」が居る以上、「私」が都合が悪いと感じる事は絶対に排除しようとします。
「願望を叶える私」が消えてしまっては大変に具合が悪いので、何がなんでも「これはゆずれない」と
なってしまい、
再び振り出しへと戻ります。そんなものはどうでも良いのです、「私」からの思考も感情も特にこれといった力はありません。
好きで好きでたまらない「私」を捨てる時が目覚める時であります。
ただ感覚的に難しいのが「私」が居なくなった時に感じる高揚感や全能感は
「素晴らしい!」という感情にすり変わる事が非常に多いのであります、つまり「私」視点から
見れば「非常にポジティブ極まりない素晴らしい感情!」と解釈してしまいます。
ですから
感情を観察するのは良いとしても、感情に振り回されないように
しなければなりません。確かに「私」が消えた時には素晴らしい高揚感、全能感を感じ、あまりの衝撃に感涙に
むせび泣くかもしれません。
が、だからと言ってどんなに泣いた所で、その辺の主婦が一日の台所仕事で使う
水の量より泣けるわけでもありません。しかし、感動した後に「こんなに感激して泣けるなんて
素晴らしい!」と、
「私」が消えた途端にちゃっかりと「私」視点が堂々と居座っています。これは感情を観察しているようで感情に振り回されている良い例であります。
結局、「私」がある限りどんなに素晴らしい(と感じる)物も大した価値は無いのです、
そして「私」が汚いとかこれはダメだとか感じる物も、別にダメでも何でも無いのです。
良いも悪いもありません。
「私」の恋人や家族に対する愛と、ゴキブリは同価値なのです。
と、書くと
ものすごい抵抗を感じる方も多々居ると思いますが、全ての源泉になるためには
越えねばならない抵抗でもあります、それを越えたときに少々クサイ言い方ですが、
初めて世界との一体感、真実の愛みたいなのを体感できます。
世界になってしまえば、もう怖いものはありません。文字通りビックウェーブに乗っている状態です。
ちっぽけな幻想の「私」が考えうる以上の物が、流れ出てくるでしょう。
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