秋葉原在住の方からメールを頂きました。
「秋葉原が表参道みたいな街になってほしい」というもので、
まずは秋葉原を愛さなくてはならないのか、との事であります。
私はこのメールを見て
表参道に引っ越せば良いじゃないかと思ったやはり愛するとか
何だとかは、結構やっかいな表現だなと改めて思いました。
答えのようで答えになってない文章になってしまいますが、愛がどうのこうのはここ何回の記事で
ちょこちょこ出てきているので今回もその事に触れてみます。
アキバを愛すと言っても、前も書きましたが
愛する対象と愛される対象みたいのを
勝手に創り出してしまうものですよね。
どこまで行ってもアキバを愛す私と、私に愛されるアキバという分離が付きまといます。
ここはもう少し大きな視点に目覚めて、そういったもの(アキバを愛すとか愛さないとか)を
まるっと創り出しているモノの方に全部明け渡した方が良いと思われます。
以前も書きましたが
「枠組み」に気付くという事です。
簡単に言えば歩けるのは前に壁が無く、スペースがあるから歩けるのです。
歩けるというより歩かされているのであります。周りの環境その他によって思考や感情は
全て操られています。自分の意志で動いているように感じますが、そのような意志を持つことすら
すでに枠組みの範疇なのであります。
で、話が少し飛びますが枠組みに気付けば
全てが平等に見えるという事です。
例えばテレビゲームの中のマリオはカメを敵視していますが、結局はゲームのキャラであり、
ドット絵であります。マリオが正しくてカメが悪いという事もありませんし、
その逆も無いです。
全てが平等という状態が
愛とか慈悲だとかの状態だと思います、
AKBファンは前田敦子も大島優子も平等に見なければならないのであります。
「私はナントカを愛す」は
単なる強烈な感情であって、それ以上でもそれ以下でもありません。
同じように悲しいとか何だとかネガティブと言われるものも強烈な感情であって、
それを誤魔化すためにポジティブとされる強い感情をぶつけても、
その場しのぎにしか
ならないでしょう。
全てが平等、フラットであるという状態は
完全にバランスが取れた状態であります。
バランスが偏った状態でああだこうだ悩むより、というより
偏っているからこそ悩むのですが、
まずはバランスを取り戻す事が肝要です。
まあ私は
大島派なんですけどね。
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