前々回の記事で和解するのがどうのこうのという記事を書きましたが、
これは何も難しく考える事もなく、人や物、或いは感情に対し不安やイラっとするのは、
全てそれらと分離しているからであります。
簡単に言えば「私の身体」というモノを認識し、体の外側にあるものは全て「私ではない」と
なると、これは
最も簡単な分離の感覚です。
前から酔っ払いのオッサンが近付いてきたら「外側から私の身体(内側)に変なオヤジが
接近しようとしている!いやあああああ!!」となるわけです。
ですから和解するとは文字通り内側も外側も無くすことであります、
と言っても自分からオッサンに近付いていって熱い抱擁をする必要はありません、
不安やイライラしたら、分離しようとしているのだと感じれば良いだけです。
最近ルビンの壺を例に出すと説明が楽なので、
個人的に壺ブームですが、
前も書きましたがルビンの壺の向かい合ってる顔に対し「嫌だ」とか「不安だわ」と
なったら、それは真ん中にある壺を実は知っているからこそ嫌だとか不安だとかに
なっているのです。
何故なら真ん中の壺を意識的にせよ無意識にせよ認識していなければ、
向かい合っている顔は見れないからです。
マイナスに感じるものは、実はプラスを持っているからこそマイナスとして
認知出来るのです、ですからあらゆるものに対し分離を止めれば良いのです。
前述したオッサンの話に戻すと「私は」酔っぱらいではない、「私は」オッサンではない、
「私は」あんな汚くない、とざっと思いつくだけでもこれだけ「私ではない」=分離が
出てきます。ただ単にこれらの分離に気付くだけで
和解は成立であります。
これがもう少しスケールが大きくなると「私」の存在があるからこそ世界だの宇宙だのが
存在するという事になるわけですが、その辺は長くなりそうなので気が向いたら書きます。
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