「内側と外側に分離しているのはわかりましたが、色々と分離しているものが
認識出来て、逆に何やかんや考えて疲れてしまいます」というメールを頂きました。
この辺は非常に間違いやすいというか、見逃しやすいのですが
何やかんや考えるっつー事は、当然その思考・考えを
「心の声」として処理しているわけ
だと思いますが、
心の声=内なる声みたいにまったく疑いもせずに捉えてしまうと
話がややこしくなります。
昨日も書きましたが、まず一番簡単な分離は「私の身体」と「身体の外側に存在するもの」で
あります。で、次に簡単かつなかなか気付かないのが
「私の心の声(内なる声)と
「外側から聞こえてくる自分の声、あるいは他人の声」であります。
ここ最近の記事だと分離を解除して和解しようぜって話ですから
当然内なる声も外の声も区別はありません。
声は声であり、もっと言えば単なる音声であります、そしてもっと言えば
音声を音声として
認識している何者かがいるわけであります。
しかし内なる声はあまりにも普段から慣れ親しみすぎているせいか、
何故か別格扱いになっている事が多いのです。
内なる声は「自分の」声であると勝手に判断しているのですね。
さらに厄介なのはこの「内なる声」に導かれて神を見ましたとか
宇宙のパワーが降ってきましたとか鼻から仏像が出てきましたとかスピ系だと
その手の表現が
大変に多いっつー事ですね。
まあ文章で表現する場合はそうなってしまうのはしょうがないのですが、
「内なる声」と、その辺のオッサンのイビキと、初音ミクの歌声は、実際は全部同類なので
「内なる声」を別格扱いする必要はありません。
スピ系だと「内なる声」は真実を閃かせるみたいな印象がどうしてもあるんですけど、
そのような
何か素晴らしいものを認識させる事はありません。が、しかし。少しややこしいですがここにヒントみたいのが隠されているのであります。
素晴らしいものを「内なる声」で認識する、閃くという事は
逆に言えばその「声」を聞く前の自分は素晴らしくなかったという事です。
しかし本来の自分は最初から素晴らしいものなので、素晴らしいものが素晴らしさに
気付くのはおかしな話であります、ダイヤモンドはダイヤモンドの美しさを直接見る事は
出来ないのです。
前も書きましたが
「右足で右足を直に踏めない」のと同じ事ですね。
なので、メソッド類をやればやるほど本質的なものから遠ざかって行くのです。
ナントカメソッドで「素晴らしい真実に気付きました!」という心の声、感動は
単なる音声であって別に素晴らしくも何とも無いのです。
心の声云々以前に、それを
声として認識させているものが偉大で素晴らしいのです。
つまり宗教的に言えば
何処にでも神は存在するという事です、それこそオヤジのオナラにも、
近所のババアの痰を吐く音にもです。
ややこしい話になりましたが、自分が聞いている音声や見ている画像に内も外も無い、
本当に素晴らしいのは声や音ではなく、それを聞いている、創り出しているものだと
いう事を知れば良いのであります。
まあ文章で書こうとすると「ナントカに気付きましょう」みたいに表現せざるを得ないんですけど。
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