昨日の記事で「声(音)を声(音)として認識させているものがスゴイ」みたいな事を
書きましたが、これと同じで見ているものも、あるいは聞いているものも、
それをそれとして認識させているものがやはりスゴイのであります。
私がこの何だかよくわからないスゴイものを知覚(?)したのは
だいぶ前の記事にも書きましたが自転車に乗ってていきなり「私」感覚の消失を
体験した時からです。
が、しかし。 この「私」消失の体験は今になって思うと別に大した事無い、
というか自分が消えて世界が現れる初期の段階ではなかったかと思います。
結局「私」が消えたと言っても「消えた私」を認識している「私」が居るわけですから
よく考えると別に消えてないんですよね。と言っても、この
「消失体験」からは度々「私」は消えていきました。
そしてその度に「消えた私」を認識する「私」も居なくなり、「私」とは見ている景色であり、
聞いている音であり、感じている風であるという感覚になってきました。
駅前に立ってるだけで、まさに空が頭であり、胴体は駅であり、
腕はすき家の店舗で足はケンタッキー、
アソコはカーネルサンダースみたいな感覚なのです。
そんな表現はあんまりだぜと思うなら、カッコつけて言うと
「雨粒の音一つにも神を見出す」という
感じです。(カッコつけ過ぎ?)
結局今まで感覚として捉えてきたものに対し、ああだこうだ喚いていただけで、
本来の私はその「捉えているもの」そのものだったのであります。
「捉えているもの」を「捉える」事は出来ません、捉えようとする行為は
全て意味が無かったのです。この段階に達してからは、全てが自分であったという驚異的な至福感を感じ、
あまりの至福感の前にもう願望とか何だとかが吹っ飛んでしまいました。何故なら時間も含めた文字通りの全てが己の中に存在していたからであります、
未来も過去も無く、全て「今」が自分だったのです。
CMを見る度に
何故かいつも「新発売」扱いだったケンちゃんラーメンになった気分であり、
願いとか望むとかって必要無い、何て馬鹿馬鹿しいんだろうと感じました。
こうなるともう、あらゆる事柄は完璧としか見えません。
全ては、全てを感覚として「捉えるもの」が創り出した幻想であり、
「捉えるもの」が居るからこそ幻想もまた創り出されます、最近よく出てくるルビンの壺と同じです。
さっきも書きましたが
「捉えるもの」を「捉えようとする」事は出来ません、ですから結局は在るがままになるしかないのです。
在るがままを邪魔するのが、「捉えようとする」思考なのであります。
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