最近度々書いていますが、本来の自分とは
常にそこに在る者であり、
それは時間も空間も超えている存在であります。
そして、メソッドを行えば行うほどそこから離れてしまうのであります。
と言っても私が潜在意識云々とか瞑想云々を否定しているわけでは
ありません。読者の皆さんが
「メソッドを行うと離れる」を、
コイツは何でもかんでも否定する厨二病なのかと受け取ってしまったら、
その原因は私の文章力の拙さであります。
実際は「離れていく」からこそあらゆるメソッドには価値があるのです。
何故なら
ある対象から離れるっつー事は、離されようとしているものを
認識しているから出来る事なのです。
「離れる」という言い方が紛らわしいなら重心が行ったり来たりしていると
言い変えても良いかもしれません。
一時期説明に便利だということで、調子に乗って「ルビンの壺」を例に出しまくって
ましたが、今回も
困った時の壺頼みで登場してもらいます。
「行ったり来たりする」状態はルビンの壺で言えば顔の部分だけを見たり、
そうかと思えば壺の部分を見たりして、視点が定まらない状態です。
「ルビンの壺」は向かい合っている顔と、真ん中の壺があるからこそルビンの壺であり、
しっかりとルビンの壺を認識している者、すなわち顔にも壺にもどちらにも偏っていない
超越したポジションに在る者が「本来の自分」であります。
しかし話はここで終わりません。
「超越したポジションに在る者」ですら「ルビンの壺」があるからこそ
「超越ポジション」がゲット出来るわけです、前田敦子は他のメンバーが居るからこそ
センターポジションをゲット出来るのであります。
つまり
「ルビンの壺」と「超越した者」も実は一つのものであり、
結局「全ては一つ」に還らざるを得ないのであります。
最初から一つなのですが、それを思い出すには各種メソッドと呼ばれるものを
実践して、一旦家出をしないと思い出せないという、ある意味めんどくさい手順が
必要なのであります。
ですから以前も書いたように、どんなメソッドでもやりたいならどんどん行い、
やりたくないならやらないで結構ですし、オリジナルのメソッドを開発しても良いのです。
合気道だか何だかで
「歩く姿が武」みたいなカッコイイ言葉を聞いた事がありますが、
それと同じで
「何をやっても一つ」なのです。
前述したように結局「全ては一つ」に還らざるを得ないからです。
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