今まで思考を止めてどうたらこうたらとか「私」が居ないからどうのこうのと
グダグダ書いていましたが、読者の方の中にはそのような
キチガイじみた代わり映えしない内容を読むと、結局は仙人のようになってしまうのではなかろうかと
心配(?)されている方も居るようであります。
前も書いたと思いますが、色々メソッドだ何だを
試した後に何らかのパワーを得ると
いうのは間違っています。「仙人のようになってしまうのではないか」というのも
結局は何らかのパワーなり神秘体験を経て、そのようになるのではないかという
考えだと思われます。
私は小学生の頃、地元の少年野球チームでキャッチャーやってまして、
ドカベン二世と言われた男ですが(キャッチャーやってたのはともかく、
これは
真っ赤なウソです)バッティングとは何ぞやと言われれば、
早い話が来た球を思いきりブッ叩く事であります。
腰の回転だのスタンスだのバットのヘッドスピードをどうのこうのは
確かにバッティングの一要素でありますが、
イコールバッティングではありません。バットを持って飛んできた球に対して振るという動作は、
腕が二本で足が二本のフォルムを持つ我々にしてみれば
既に完成されているのです。
つまり完成されている事が前提だからこそ、ああでもないこうでもないと
能書きを垂れる事が出来るわけで、能書きを聞けば聞くほど完成に近付くはずだという
ある意味一般的な感性は、実は逆走しているとも言えるのです。
この前も書きましたが様々なメソッドを実践するのは大変に結構な事であります、
が、しかし それは「完成していないから」ではなく
「完成しているからこそ」の
確認作業である、という認識で取り組むと良いんじゃないかと思います。
波乗りも海が無いと出来ません、つまり波乗りとは海が存在する(完成している)事の
確認作業であるというのと同じですね。
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