「ぶっちゃけ金持ちの家に生まれた人とかの方が、貧乏とかに
心を惑わされない分、スピリチュアルっぽい目覚めとか気付きとかを得るのが
簡単なんじゃないの」みたいなメールを頂きました。
これは
一理あるのではなかろうかと私は思います。
少々嫌味に聞こえるかもしれませんが、私自身それなりの資産家の孫として
育ったせいか、お金や物欲に関しては正直「無価値」とまでは行きませんが、
はっきり言って
執着ナッシングであります。
黙っていても祖父がポンポン小遣いくれて、おもちゃやゲームも買ってくれましたし、
既に十代~二十代の時期においてそういう物欲を満たすのに”飽きた”部分は
確かにあります(ちょっと嫌な奴?)
執着が無いっつー事は、いわゆる価値観みたいのが、ある対象において
変動しない、全てにおいて平等になるという事でもあります。
「私」が存在していると、全てにおいて平等な価値観はなかなか持ちにくいもので
あります。どうしても
「私」に都合の良いもの、悪いものと分けますからね。
偽りの「私」が消え去るという事は、結局は全てが本来の自分を
邪魔するものでも傷付けるものでもない、という事に気付くという事であります。
簡単に言えば殴られても
「私の顔」が傷付くのであって「私」は別に傷付いては
いないという事です。
じゃあ目の前からパンチが飛んできたらまともに当たれというのか、
というのは質問自体がナンセンスです。
誰もパンチに当たれとも言っていないし、かわせとも言っていません。
当たっても良いし、かわしても良いし、かわそうとしてやっぱり当たってしまっても
良いのであります。もちろんカウンターパンチで反撃しても良いです。
つまり、かわす>>>当たるという価値観は偽りの「私」のものであり、
ここにハマると堂々巡りになります。
人によって、何に価値観を持つかはそれぞれです。
ある人はお金であり、ある人は異性かもしれません。
それらからの影響を受け続ける限り、いつまで経っても同じ所を回り続けるでしょう。
偽りの「私」が消えるという事は全てがイコール自分である、
つまり預金残高が500円と500万円も同じ、好きな人と付き合う事と
別れるのも同じ、全てにおいて良いとか悪いとかではなく、
超越する事です。
超越したらどうなるの?って思うかもしれませんが、別に何も変わりません。
普通に起きて普通に顔洗って普通にメシ食ってるでしょう。
インドとかチベットとかの聖者みたく、
何故か上半身裸になったりもしません。
変わる所はただ一つ、ゲームにコマとして参加していたか、
ゲームそのものになったかの違いです。
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