昨日の記事を読んだ読者の方から
「エイブラハムはハムではありません!」とかの
怒りのメールが来たら、どう弁解しようかとビビッていたのですが、幸いにして
そのようなメールは届いておらず、ホッとしています。
私としては別にエイブラハムの正体が肉屋のオッサンの妄想だろうが、
伊藤ハムの社員だろうが、どうでも良いと思っています。
というか世界は自分なのですから、どこまでも自分中心(自分以外いないので、自分・他人という
表現は本来おかしいのですが)に考えてしまって良いのです。
つまりエイブラハムは実在する!と感じたらそれが真実であり、エイブラハムはハムの一種だ!と
思えばそれもまた真実なのです。全ての決定権は「私」にあるのです。
4月28日付の記事で
「世界の支配者はすき家だ」と思えばそれでもOKみたいに書きましたが、
それと同じ話であります。
しかしこの「私」が曲者であります、殆どの場合エゴによって歪められた
「偽りの私」が
作り出した基準になってしまっているからです。
ある特定の願望を抱いた際に「でも、何々が足りない」とか考える事があるかもしれませんが、
それらも全て偽りの私が作り出したものです。
先のすき家の例で言えば、「世界の支配者はすき家だ」と思えば、
「すき家にお金を払わないと
黒服の男たちに拉致される」とか思って、一日三食チーズ牛丼を食う生活を送るかもしれません。
「松屋で食べたい」と思っても「でも、この世はすき家が支配してるし・・・」とか思って
結局松屋に行けないかもしれません。
この「世界の支配者はすき家」が
「偽りの私」が作り出した基準であり、
「松屋で食べたい」が
「願望」です。
「偽りの私」が勝手に作った基準の中で「松屋で食べたい」と思っているから
ナントカメソッドを追い求めるわけです。基準を無くしてしまえば松屋で食おうが吉野家で
食べようがOKなわけですよね。
ですからこの基準を取っ払うために前々回の記事で書いた
「無」すなわち
ムームー星人になる事がポイントとなるわけです。
「無」は全ての基準が無い状態です、大袈裟に言えば宇宙がまだ始まっていない
何も無い
「無」です。
ここから様々な意図や願望が生まれ、いつの間にかエゴがくっついてきたり、
何だかんだと世界が展開するでしょう。
結局の所、エゴも自分自身が創っていただけだったのです。
文字通りエゴは幻以外の何者でもなく、敵でも何でも無かった事に気付けます。
「無」からどのような世界を創るかは、全てあなた次第です。何も創る気がしないなら
それでも結構、純粋な意識として漂うのも悪くないです。一度
「無」を感じれば
今日からムームー星人の仲間入りです。
前々回の「ムームー星人」昨日の「プリマハム」そして今日の「伊藤ハム」の
ハム三部作は
決してふざけていたわけではなく、読者をムームー星人に覚醒させるための壮大な仕掛けが
隠されていたのです。
(ウソです)PR