前も同じような事を書いたんですけど、
このブログを読んで頂いている読者の方が求めているものって「方法論」だと
思うんですよね。こうすればこうなるよっていう公式というか法則みたいな
ものを期待している方が多いと思うんですけど、ブログを見る度に
くだらないギャグしか書いてなくて、
それでも何か意味が隠されているんだとか思って読んでいる方がいるかもしれないと思うと、
何か申し訳ないなーって感じですよね。
どう考えても昨日のタイトルの
「伊藤ハム」なんかに
意味が隠されてるわけないじゃないですか。なんでこんな事書いたかというと、読者の方から頂くメールの内容の九割は
「面白いです」とか
「僕はすき家でバイトしています」とかなんですが、たまに
かなり深刻な悩みを
書いてくる方もいて、そういう方もいると思うと、もう少し真面目に書くのが良いのかなとか
思うんですが、結局の所
外側に救いを求めても救いは無いという事を強調したいですね。
外側になにかリアクションを求めても、望んだ結果が出たり出なかったりでしょう。
外側が良くなれば自分が良くなると思っている以上、世界と自分はずっと分離したままです。
「ムームー星人」の記事でもちょっと書きましたが、本来の自分は全ての始まりであり
創造主であるわけです、それが色々あって「外側の世界と自分」というように分離を作り、
外側の世界を
「自分の能力で」どうにかしようと躍起になっているわけです。
そもそも「何々を叶える」って言い方も
誤解を生む要因の一つなんですけど、
私自身は「これこれこういうのを叶えよう」とは思いません。振り返ってみると、結果として
叶っていたね という事ばかりです。(4月22日付の記事「ハエを切る」参照)
それを説明しようとすると、どうしても「こういう事が起きて叶えました」「全部叶ったんです」と
なってしまうわけです。
大体何かの願いが叶うにしたって、振り返ってみれば殆ど偶然というか、巡り合わせですよね。
スポーツとか芸術の世界でそれなりの成功をした人でも、その分野に興味をもったきっかけが
たまたまテレビで観たとか、近所のオッサンが偶然その道の指導者だったとか、
「自分の能力で成功した」と思っているものは実は殆ど皆無だったりします。
テレビをつけなかったら、その分野に興味を持たなかったかもしれませんし、
近所のオヤジが焼き鳥屋だったら、焼き鳥屋になってたかもしれません。
成功なり願望実現なりは「自分の能力」なんだ、と思い込むからいつまでたっても
分離してしまうのです。語弊がある言い方ですが、文字通り「
無能」であると
認識した時に、創造主としての認識が見えてくるのです。
個人的な昔話になりますが、十年以上前に亡くなった私の祖父は、地元ではそれなりに名が知れた
資産家でした。戦争から復員後、焼け野原になった日本でたった一人で商売を始め、
晩年は土地や不動産を多く所有していたのですが、
私が中学生ぐらいの頃に「爺ちゃんはどうやって金持ちになれたんだ?」みたいな事を
聞いた時に
「俺は何もやってないよ」と答えた祖父。
「でもなんか秘訣があったんでしょ」とさらに食い下がると
「ぶっちゃけ運」という
実に
ツマンネー答えが返ってきました。
あの時は「それじゃ面白くねーよ」とか思ったものですが、今にして思うと
祖父が私に言った
「ぶっちゃけ運」にはシンプルにしてディープな
意味があると(少なくとも
伊藤ハムよりはずっと)痛感している
次第であります。
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