度々このブログで「何もしない」事についてああだこうだと書いていましたが、
「何もしない」は言い方を変えると「何も出来ない」事に気付くという事でもあります。
以前も(いつも)似たような事を書いたのですが、私達が考えている事、つまり思考は
後付け設定のようなもので、過去や未来の事を色々と思い悩んで勝手に
ああだこうだと騒いでいるだけです。
いい加減
引っ張り過ぎの感があるすき家ネタですが、やはり前回書いたのと
同じように
「世界の支配者はすき家なんだよ!」と思ったら、それを基準にああだこうだと
思い悩むわけです。じゃあその「世界の支配者はすき家」は
誰が思っているのか という事です。
「基準」を作り、それについてああだこうだと考えている人は誰なのでしょうか。
「もちろん、私ですよ」と思った人は、残念ながら不正解です。
実際は「基準」を作ったきっかけは、周りの環境や周りの人たちの言動を見たり聞いたりした事を
勝手に解釈しただけです。
誰が解釈したのか?それは世界から分離してしまった際に生まれたエゴであります。
エゴは、勝手に生まれただけで毒にも薬にもなりません。
しかしながらいつの間にかエゴがあなたと一体化し、あなたはエゴがイコール自分であると
勘違いするようになってしまいました。
その結果として、単なる雑音でしかない思考を
「自分の内なる声」だと完全に誤解するように
なってしまったのです。
思考が単なる雑音であり、「後付け設定」であることに気付くと、
「では、私はどこに存在するのだろうか」という事になると思います。
今まで「内なる声」に耳を澄ませてある時は希望を、ある時は絶望を経験し、ある時は
その声に従い体を動かしたり、牛丼を食ったりしたりしていたかもしれません。
「後付け設定」を信じれば信じるほど、「俺はこれこれこのように考え、このように行動したのだ」
というエゴが強化され、いつの間にかそれは絶対のものとなってしまいます。
それらが全部「単なる雑音」「後付け設定」だと気付いたら、エゴ視点からの「私」は消滅します。
「私」は何も考えていなかったし、何処にも居なかったんです。「何もしない」は「何もしない」ようにしよう!ではなく、最初から
「何もしていない」のです。
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