「最近、瞑想をして心静かに流されるままに過ごすと、
毎日これといった事をしなくてもお金が入ってくるようになりました。
でも将来への漠然とした不安などが消えません」というメールを頂きました。
これはまあよくある話で、お金なり何なりが悩みを解決してくれると
思ってそれを得たとしても、新たな心配事や不安が出てくるのは
汗を拭いてもまた運動すれば汗をかくのと同じで、
生きている以上は仕方の無い事であります。
これを絶ち切るには文字通り
死ぬ事です、
と言っても死とは肉体が滅ぶ事では無く、自我の死です。
自我の死とはあらゆる事の
観察者が死ぬ事です。
思考を観察する事は出来ます、しかしそれはあくまで
思考と、それを観察する者が居るからこそ出来るわけで、
裏を返せば
思考への抵抗であります。
思考を観察する事により思考に巻き込まれるのを防ぐという
抵抗であり、同時に分離なのです。
確かに心静かに過ごせば貧乏だ裕福だといった思考から離れられるので、
結果としてお金が入ってきたり、貧困を感じなくもなるでしょう(同時に
裕福も感じられません、それを喜ぶ自我が静まるからです)
しかしそれはあくまで貧困や裕福といった思考から逃れるための
抵抗なので、それら以外の思考や概念は普通に出てきます。
お金で解決できない戦争、病気、政治情勢などであります。
で、またもそれらに巻き込まれまいと観察者の意識で「抵抗」するわけで、
「瞑想し、心静かに過ごす」は大変に立派な事なのですが、
同時に大変な
「抵抗」なのであります。
この抵抗に気付く事で自我の死は近付くのです。
と言ってもどうするのか? それは何もしない事です。
ややこしいですが抵抗とは、
抵抗そのものからは完全に自由なのです。
違う極同士の磁石を近付けると、磁力は反発しますが反発(抵抗)という
現象はあっても、磁力そのものは完全にそこにあるものです。
つまり反発という現象はあっても磁力そのものを分断する事ではありません。
「現象」を見出だすのは観察者です、磁力そのものはまさに何一つ分離の無い
自我にとっての死であります。
自我が死ぬ事によって
「自分=世界」というより、もっと言えば「世界」だけに
なるのであります。
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