ここ数日は何故か似たような内容の悩み相談みたいなメールを頂くのですが、
兎にも角にも
「心の声」的なモノに耳を傾け過ぎと感じます。
例えば前からオッサンが歩いて来て、そのオッサンがこちらを睨んできたら
不安になると思いますが、これも「不安だわ」と
心が語るから不安になるだけで、
別にオッサンが睨んで来ようが微笑んで来ようがどうでも良いのです。
あくまで問題は「オッサンが睨んでる、怖いわ、不安だわ」とか
「オッサンが微笑んでる、変質者だわ、危険だわ」と囁きかけて来る「声」を
信じてしまう方に問題があるのであって、繰り返しますがオッサンはどうでも良いのです。
全ては心の声を無条件に
”真実である”と思い込む事から来ているのが殆どです。
これはギャンブルなんかやってみるとよくわかるんですが、競馬とかで絶対の本命が来ると
わかってるのに「今月は負けが込んでるから」とか言い出して、
何故か突然収支の帳尻合わせを始めだして結局本命を買わなかったり、あるいはその逆で
「今月はツイてるから大丈夫」とか言って、来るわけ無い大穴につぎ込んで大負けしたりします。
そもそも私を含めて競馬場に来るようなアホなオッサンが、突然収支の帳尻合わせを考えたり、
ツイてるからOKとか言い出すのはもっとアホな事であります。
単純に馬券を買いに来ているだけであって、収支を合わせるのも、ツキに任せて
ブッ込むのも、「馬券を買う」という本来の目的から外れています。
外れていますが、何故か「収支を合わせて云々」や「ツイてるからOK」という
心の声が「正しい」と認識してしまうのですね。
この「心の声」が厄介なのは、それに従って行動し、うまくいったように見えると
それが「真理」であるとますます思い込んでしまう所です。
そして「真理」を囁く声の主こそが「私」であるという、
確固たる自我が君臨するように
なるのであります。
で、私はこの前明らかに彼女が機嫌悪そうだったのですが、気にせず目の前で屁をかましたら
ブチキレやがってえらい事になったのであります。
という事は「機嫌が悪そう」という心の声は正しかったのでしょうか?
それも違います、心の声を信じた時点で「私」と「世界」は分離します。
心の声を信じなければ、世界は常に一体となって在ります。
「機嫌が悪そう」と「思う私」が居ないのですから自他の区別は消えています。
でも結局彼女キレてるやんけ、と思うかもしれませんが、
心の声を信じる事で作られた
偽りの私を通しての体験と、
何処にも私が存在せずに
体験だけが在るのとはまったく違うのであります。
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