不幸だ不幸だと騒いでいる場合、結局は本人が不幸を探しているのであります。
その本人は自我が騒いでるだけでどうのうこうのとか言うとややこしくなるので、
取りあえず御本人が不幸を探しているのであります。
で、もしも寝ている時に不幸だ不幸だと言っているのなら、間違いなく不幸だと
思われます。しかし、寝ている時に不幸を感じてはいないと思います。
不幸が
「状態」ならば、
常にその状態にならなくてはおかしいからであります。
しかし寝ている時に不幸では無い、ならば不幸という「状態」は
本人がわざわざ探しているとしか言えません。
そして不幸は、前回も書いたように心の声を聞きまくる事で作られるのであります。
仮に目の前で今にも死にそうな、
「火垂るの墓」に出てきそうな子供が居るとします、
「かわいそうだ」「なんつー不幸な子だ」とか色々心の声が湧き、それを聞く事で
悲しくなったり、気分が沈んだりするのです。
ここで注目して頂きたいのは、恵まれない子供を見て不幸だ何だと感じるのは
あくまで心の声みたいのを聞き、それを信じた結果なのであります。
つまり子供の状態と「悲しい、不幸だ」という思考は
実は関係無いのです。
これは別に死にそうな人を見かけたら指を差してプギャーと笑えとか、
巨人ファンのオヤジの前で巨人が負けてメシがうまいと言えとか、
そういった意味ではありません。
悲しいとか、なんて不幸なんだという「声」は殆ど条件反射的なものであって、
真実でも何でもない、という事です。
この事に気付く事で、あらゆるものは中立となり、結果として「自分」だと思っていた
ものが消え、世界が現れるのであります。
何故なら多くのモノや概念に価値観や順位をつける事で偽りの自分が作られて行くからです。
偽りの自己が解体された時、全てが自らの内側であって、
自分は外側の殻のようなものであると気付くでしょう。
雨が降っているのを見るのと同じように、痛み、喜び、感情、思考を感じ、今まで己の内側だったと感じていた思考や感情が、外を流れる風のようになり、
己の外側で降っていると感じていた雨や風は、内側に在る事を知るのであります。
非常にどうでも良い余談ですが、「火垂るの墓」って英語にすると
当たり前ですが
「Grave of Firefly」になるんですよね。
私は中学の時に「火垂るの墓」の原作の感想文を書く機会があったのですが、
「グレイブ オブ ファイヤーフライだと思って読むと何故か悲しくないです、
むしろカッコイイ」と一行で済ませたら、先公に本気で怒られました。
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