「ネガティブな感情や言葉は、願望の実現などにはあまりよろしくない」という
感じの事が書いてある本とかもありますが、私個人としては
別に良いんじゃないという
アバウトな感覚であります。
何故ならネガティブな言葉や感情は本来存在しない「自分」「私」に投げかけられているのが
殆どであります。「いや、私は憎いあん畜生に呪いの言葉を投げかけています」という
人もいるかもしれません。が、
「私」がいないという事は「あなた」もいないという事です。
「私」が存在するためには「あなた」が必要なわけです。
全てがひとつになってしまうと、もはやそういった
「区切り」が無くなります。
区切りが無いということは、言葉で説明するのは困難ですが、
全ては意識の投影であるという
事です。つまりぶっ殺してやるとか殴ってやりたいとか思っていると、
実際にそのような事柄か人物かはわかりませんが、それが湧き出てくるというだけです。
ですから「憎いAさんに呪いの言葉を送っている」というのは
ムカツクとか死んで欲しいとか
意識されたことが湧き上がっているだけです。たまたまその「憎い」を演じる「人間役」として源泉から選ばれしものがAさんだったと
いうだけです。何故Aさんなのか、キャスティングミスではないか、とかエゴ視点から
野暮な事は言わないでください、源泉のキャスティング能力は完璧なのです(多分ね)
「じゃあ、やっぱり私にとって憎たらしいあの野郎は源泉の選択だったんだ、
絶対にあの野郎をぶっ殺してやる」とか物騒なことを思うかもしれませんが、
度々書いているように「私」は存在せず、源泉が真の私なのです。
ということは
「憎いあの野郎」は、あなたそのものの意識の投影として
登場しただけで、あなたには何の関係も無い幻影なのです。エゴ視点での「私」が登場すると、途端に幻影の「あなた」(憎たらしいあの野郎)も
実体を持ったかのように「私」(エゴ)が錯覚し、「私」(エゴ)と対立するかもしれません。
しかし
「私」がいなければもはや全てが一つにならざるを得ないので、対立も何もないのです。ただ、起こっている。それだけであって、あなたがどうのこうの思い悩む必要は無いのです。
ですから幻影であるとわかっているなら別にネガティブな言葉をブツブツ言ってても
良いと思います。
「ネガティブマン」というフィルムを入れたら
「ネガティブマン」が
上映されるわけです。その上映されている映画にマジになってギャーギャー喚くのは
おかしな話です。
ですから同じように
「ポジティブマンタロウ」とか
「帰ってきた幸せマン」とかの
フィルムを入れれば、そのような映画が上映されます。
本当に、ただそれだけです。少し話が脱線しますが「意識の投影」の感覚は恋愛の初期の頃に似てるかもしれません、
誰でも恋愛の初めの頃は幸せいっぱい夢いっぱいで世界がバラ色に見えたりします。
ポジティブな意識によって源泉から湧き出てきた「幸せいっぱい」の
役割を演じるためにキャスティングされてきたのがあなたの彼女というわけです。
なんでもっと美人をキャスティングしてくれなかったんだとか言ってはいけませんよ。
まあ、私は恋愛する度に言ってたんですけどね。PR