エゴというのは自我の事ですから、「私」と「あなた」という別個の存在がいるように
常に感じています。どこまでいってもエゴ視点は
分離の世界であります。
「私」がその辺りを歩いていて、「ブログを読みました」とか声をかけられたら、
ブログを書いた「私」とブログを読んだ「あなた」が出会ったと認識します。
しかし、これが認識が変わった後だと、全て
「ただ単に湧いてきた」という感覚になります。
つまり道路だか畑だか知りませんがそのようなものが湧いてきて、それが動いている。
(エゴ視点からすれば
「私が歩いている」となる状態)
で、どっかから音が湧いてくる(エゴ視点からすれば「ブログを読みました」と他者から声を
かけられた、と認識します)でもって、何やら頭の薄いのが湧き出てくる(エゴから
すれば、
ハゲオヤジに出会った、と認識します。)
で、そっからまた音が湧き出てくる(エゴ視点では
「私」と「ハゲ」が会話している」と
なります)この全てが湧き出て来ている
「それ」が本当の自分なのです、
つまり紛れも無くこの宇宙は一つなのであります。
これに「分離」を起こさせて話をややこしくしているのがエゴなわけです。
例えば先の例で言えば頭の薄い物体が湧いて出てきた時に、
エゴが「ハゲオヤジに出会った」と認識し、ここでまず
「私」と「ハゲオヤジ」という
分離が発生します。「せっかくブログの読者と会えたのに何故こんな汚ねえハゲオヤジなんだ」と
エゴが悲しみます。「女子高生とか女子大生とかじゃないのかよ」とエゴが嘆きます。
「よし、女子高生を引き寄せるぞ」とかエゴが決意します。
しかしであります、この「女子高生を引き寄せる」は
既に分離した認識でエゴが勝手に
喚いているだけです。というより、それ以前にこれは何々だ~と判定しているのは全て
エゴです。
ですから本来は何も起きていないのに、エゴ視点でいるから「目の前にいるのはハゲオヤジである」
と認識し、「ハゲオヤジは嫌だ、女子高生とかの若いオネーチャンが良い」と
「不足」が
ある世界を作っているのです。そして「不足」があるから色んな願望実現なんたらかんたらを始めるわけです。
そう、
まさに望み通りの世界を瞬時に作ったのです。
ということは逆に、湧き出てきた事柄にエゴでレッテルを貼らない事は、
既にその時点で不足が全く無い世界を創り出しているという事であります。
何だかんだ言いつつも結局は不足の無い世界を望むなら、
何もしないで良いというのは
こういうわけです。
もちろんエゴ視点からすれば、
「こんなの望んでない!」という事柄が湧き出てくるかも
しれません(女子高生が良いのに今度はオバハンかよ!とか)しかし、何度か書いているように
源泉が何を湧き出させるかは、我々が自分の顔を自分の目で鏡などを使わずに直接見ることが
不可能なのと同じように、決して人知の(エゴの)及ぶ範囲ではありません。
ですから
何もしない、何も抵抗しない、という事がそのまま「不足の無い世界」を
創る事になるのです。
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