前回の続きにもなりますが、めでたくメソッドを捨てて世界と一体になったとします。
後はもう世界(自分)が勝手に動いているのを眺めているだけです。
ここで話がややこしくなるのですが、世界は自分なのですから見方を変えれば
他人の存在が無くなってしまうのだろうか、という事になりますが、
他人というものはあくまでエゴ視点から見た場合にのみ存在すると言えます。
例えば
ジャイアント馬場を様々なアングルで写真を撮るとします、電話ボックスを
バックにして撮れば馬場は巨人ですが、何も比較するものがない原っぱで撮れば
小さくも見えます。
つまりアングルと撮り方でたくさんの馬場が存在するかのように感じるのです。
他人の存在はこの
「馬場がたくさんいる」という錯覚に近いです。
本当は馬場は一人なのに馬場がババババとたくさんいるように感じているのです。
メソッドを捨てる事による気付きとは、早い話が
「俺は馬場だったのだ」という
気付きであります。そう、世界の支配者はすき家でしたが、
世界は馬場だったのであります。
道理でデカイはずです。
後は馬場が勝手に歩いたり座ったり葉巻吸ったりしてるのを見ているだけです。
馬場の一部になったという事は、
馬場の動きに合わせて勝手に移動するという事です。ちょうど起きあがりこぼしがどんなに揺れてもバランスを取るようにです。
起きあがりこぼしが揺れた時に、変に力んだり固くなったりしたら起きあがりこぼしは
バランスを取れません。
エゴ視点だといつまで経ってもバランスを取れません、何度も何度も苦しみます。
しかし、馬場の一部である事に気付けば馬場が立とうが座ろうが十六文キックを繰り出そうが
起きあがりこぼしの重心の如く最も良いポジションに居ることが出来ます。
十六文キック、すなわち願望とか何だとかは
エゴの願望じゃないんですよエゴはいかにも自分が願望を叶えようとしているんだという顔をして馬場を邪魔しているだけ
なのです。
願望が湧くとは、
つまり馬場の意志なのであります。
あなたは馬場の重心なんですから馬場の動きを邪魔しなきゃ良いんですよ、
馬場がアポーと言い出してるのにアチョーとか言わなくて良いんです。
そこで馬場の動きを制限して、自分こそが支配者なんだと嘘を言って
さあ早く何でもいいからメソッドをやりやがれと言っているのがエゴです。
メソッドを捨てるという事は、すなわち馬場の動き(願望)を邪魔しないという事です。
こうなるとエゴは「何かしなくちゃ、何か考えなくては」と途方に暮れます。しかし、馬場は意図した動き(願望)に向けて既に動いています、あなたはそれを
眺めていれば良いのです。馬場がいかなる動きで意図を達成するかは
知ったこっちゃありません。もしかしたら十六文キックの前に馬場チョップのフェイントを入れるかもしれません、
でもそれで「ああ、何故ここでチョップなんだ!」とかエゴが喚く声に耳を傾けてはなりません。
そこで余計な
力道山メソッドとか考え始めたらせっかくのチョップからキックの流れるような
馬場の動きが止まってしまいます。
本当は
意図した瞬間に叶っているのです。
エゴ視点で「自分が願望を持ったのだ」と思うから「自分の意志で、自分の力で」
叶えようともがくわけです。
実際は居もしない「自分」にそんな力あるわけないじゃないですか。実際は
馬場が意図してるんだから放っておけというわけですね。
PR