「普通に生きている自己は結局は大きな意志みたいな掌の上で
転がされているしかないのか」というメールを頂いたんですが、
これは大きな意志とか何だとか考えない方が良いと思います。
例えば有名なルビンの壷で言えば、向かい合ってる顔が変われば
壷の形も変わりますが、壷から見れば向かい合ってる顔の形も変わるので、
別に両者に大きいも小さいも無いのであります。
つまり全くの対等というか、
お互いがお互いを成立させているという事ですね。
しかしながら我々は日常において認識しやすい方を自己であると定義している事が
多いです。
仮に椅子に座った状態ですと、椅子に座っているであろう何かを自己としていますが、
椅子があるからこそ何かを感じられるという事でもあります。
これは椅子のおかげで自己と感じられるものが成り立っているわけで、
椅子が消えれば自己であると感じられるものは消えます。
しかし椅子が消えたら今度は、床に横たわっていると感じるものが自己であると
切り替わるかもしれません。これも床があるからこそ、自己と感じるものが
出てくるわけであります。
つまり椅子とか床とかの
関係性の中においてのみしか自己は確立出来ないという事です。
関係性が無いと確立出来ないのであれば、自己とはルビンの壷の如く、
存在しているとも言えるし存在していないとも取れるものです。
もっと言えば壷が自己なのか、それとも壷を成立させている向かい合った顔が自己なのか。
こうして
経験者としての自己は、世界に溶けていくのであります。
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