たまに例に出しますが、
ルビンの壺は向かい合ってる顔があるから壺があり、
壺があるから顔があるように見えるわけであります。
これと同じで自己と感じるものも、あるように感じるだけで実際は存在しません。
で、願望だ何だというのはこのルビンの壺の向かい合ってる顔、
または壺がビョーンと伸びているようなもので
これは顔からしても不快であり、壺から見てもやはり不快であります。
しかしながら全体として見た場合、やはりルビンの壺は成立しているわけで
このビョーンと伸びているのを認める、または許すとか手放すとかも言われますが、
とにかく
それでよろしいとすれば不快に感じる顔も壺も統一され、
幸せになるのであります。
つまり願望でも神様でも悪魔でもそれらは現れるコンテンツに過ぎません。
重要では無いのです。
ですが、顔から見たら壺が妙に曲がっているとか感じますし、
壺から見たら顔が不細工になっているとか感じるわけです。
だから
重要だと錯覚するわけですね。
ですから願望の実現とは、顔から見て不快な壺をぶっ壊す事ではなく、
または壺から見て不細工な顔面を破壊する事でもありません。
何故なら顔と壺はお互いがお互いを
成立させていると同時に存在もしないのですから
破壊は不可能なのです。
出来る事は、壺と顔を統一して
これで良いのだとバカボンのパパのようになる事です。
願望という形を取った不快を取り込むのであります。
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