だいぶ前ですが、4月12日付の記事で「自転車乗って信号待ちしてたら
”私”が居なくなってどうのこうの」という
トンデモ体験談を書きましたが、
続きを書こう書こうと思いながらすっかり忘れており、今日突然思い出したので
書こうと思います。
「私」が居なくなってから、まず
お通じが良くなりました。これはどうでもいいのですが、「私」が居なくなるという感覚が進むごとに
「思考」が出来なくなってきました。これは
どんどんアホになっていくという感じではなく、結局「思考」とは
「思考」をするための前提というか取っ掛りみたいなものが必要なのだという事を
感覚で理解した感じです。
「過去」や「未来」が無いと「思考」は出来ないのです。何かを思うとき、その始まりは
「未来」への希望や不安だったり「過去」の後悔や思い出だったりします。
例えば「痩せたい」という思考は大雑把に分ければ「将来スリムになりたい」か
「昔は細かったから」のどちらかから始まるということです。
これに「私は」が くっついて願望となるわけですが、「私」が居ないと
思考が出来ないので、無になってしまうのです。
つまり「私は以前細かった」⇒「でも今の私は太っている」⇒「私は痩せたい」という
一連の思考が出来なくなるのです。
思考しないということは、つまり最初の取っ掛り部分「私は以前細かった」は
無かったことになってしまうのです。
逆に言えば「私」が本当はいないのに「私は以前細かった」世界を「私は以前細かった」に
意識を向ける事で瞬時に創っているのです。「私は以前細かった」世界を創れば、それに伴い「思考」が「でも今は太っている」を
選択するかもしれません、そして「じゃあ痩せたい」の流れを作ります。
逆に「でも今も大して太ってないなあ」を選択すれば、恐らく痩せる痩せないの事は思考から
外れます。つまり、その世界は消えたということです。
ここで多くの人が勘違いするのが
「では、私は太ってない。を選択します」となることです。これはちょっと違います、何故なら最初の取っ掛り部分である「私は太っている」を
選択した上で、「太るのは嫌だから」「太ってないを選ぼう」という
一連の「思考」の流れから
一歩も動いていないからです。根本的な原因は「私」が居ると思ってしまった事から始まっているわけですから
「私」が居ないのだと認識することです。
「私」は存在しませんが、前述した「私は以前細かった」に意識を向けたのと同じように、
色々なものに意識を向けることは出来ます、つまり
意識としては存在しています。この純粋な意識しか無い、事に気付く事で私の認識はどんどん変わっていったのですが
ここから先は次回へ続くでござる。
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