忍者ブログ

知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

HOME • Admin • Write • Comment
ブログ開設から一年経ったので時間ネタであります。
ついでに最近リンクを張らせて頂いたマネーゲーム云々の書籍を紀伊国屋で見かけたので
立ち読みしてきました(買えよ)

時間は存在しないとか何だとか以前も書きましたが、
もうちょい正確に言うと、時間が無いというより時間の存在・影響から
脱出している存在というか何か
があります。

簡単に言うと、例によって例のごとく目の前にすき家があるとします。
すき家の中に居る以上、すき家の店舗内部の時間は存在します。
そうでないとアルバイトに時給も払えないし、お客も回りません。

この店舗の中でワーワーやってるのが非常に狭い個人の意識であり、
あまりこういう表現は使いたくないですがエゴであります。

店舗の中に居る以上、時間(として感じられるもの)は存在します。
が、しかし。すき家の店舗を外から眺めている場合、すき家の店舗内部の時間というものは
存在しなくなります。


10分前に客がコップ落として割ったとか、5分前にチーズ牛丼を頼んだ客がトイレに行ったとか
そういった時間を基準にどうのこうのといったものは、全て店舗の内部に居るから
体験できるわけです。

店舗の外側にいる場合、そういった事は存在しません。
しかし今度はすき家の店舗そのものが朽ち果てていく「時間」を目撃します。
看板が剥がれたとか照明が落ちたとか、ついに店自体が潰れてしまったとか、
そういったものを時間と共に体験します。

で、さらにスケールを大きくしていって今度は日本列島そのものを眺めた場合、
すき家の店舗が外側からボロくなっていく様子は見えません。
しかしながら今度は日本列島に地震が来たり、隣の国からミサイルが飛んで来たりという
出来事はやはり「時間」と共に見ることが出来ます。

さらにさらにスケールを大きくすれば地球から見れば日本列島における「時間」は
無くなりますし、宇宙から見えれば地球の「時間」は無くなり、もっとすごい何かから
見れば宇宙の「時間」も無くなり・・・とエゴを超越していくと
「時間」はどんどん影響を及ぼさなくなっていく
のであります。

だから一体何なのだと思われると思いますが、この地球だの宇宙だのを超越していった
意識(?)みたいのが本来の自分であり、宇宙とは自分の内側に存在するものなのであります。
決して外側に広大に広がっているのではなく、内側がそれなのです。

過去も未来も無く、自由意志も無く、ただ内側を見つめる、というより自分自身を見つめる事が
本来の自分と向き合う瞬間なのです。
すき家の店舗では未来を操る事も、過去を変える事も出来ません。
過去と未来という時間の概念の及ばない領域が本来の自分である事を知るのであります。

狭いすき家の店舗で、自由意志があると勘違いすると悲劇が起きます。
それはすき家のメニューには牛丼とカレーしかないのに「どうしてお茶漬けを出さないんだ」
喚いているのと同じです。(定食があるじゃないかというツッコミはこの際無しで)

そうではなくて全ては時間の影響が及ばない何かスゴイもの(本来の自分)が
わざわざゲームを楽しむために低次元(?)にまでレベルを落としてくれているのですから、
全ては本来の自分の力であり、その事を受け入れる事がマネーゲームの本にも書いてあった
「力を取り戻す」っつー事なんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう。

まあ ざっとしか読んでないんですけど。
PR
なんと今日でブログ開設一周年だったのですね(さっき気が付いた)

私は昔から記念日とか誕生日とか何だとか、全くまるきし気にしないタイプなので、
一年経ったからといって特に何もありませんが、いつも訪問して頂ける読者の皆さんに
感謝であります。この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。
昨日の記事でマネーゲーム云々を取り上げたので、今日もゲーム繋がりであります。

私は「ザ・マネーゲームから脱出する法」は未読なので著者の見解は知りませんが、
ゲームから脱出、つまりゲームそのものから降りてしまうという事に関して
個人的な考えを書いてみようと思います。

ゲームから降りる事が簡単そうで難しいのは、早い話が「都合の良い事」を
期待するから
であります。

本来は「自分」は存在しないのですが、どこまで行っても「自分」に都合の良い事を
期待してしまうものです。
存在しない「自分」に対して都合の良い事を期待しているんだから、苦しかったり不快になるのは
当たり前っちゃー当たり前
なのです、まさにゲーム脳に陥っているのであります。
服を着ていると思い込んで寒空の下に飛び出して、寒い寒いどうしてだろうと
悩んでいるようなものです。

ゲームから降りる事さえ出来れば「自分」にとって都合の良い展開になるとか期待していると、
それもまた新たなゲームの始まりであると思います。

ゲームである以上は、どうしたってゲームをプレイするコマが要ります。
そのコマにとって都合の良い事を期待していたら、これは「これからもゲームを続けていく」
という意志表示になってしまいます。

ですから都合の良い事を期待しない事です、本を読もうが祈りを捧げようがトイレを掃除しようが
コマにとって都合の良い事なんて起こりません。
都合の良い展開を期待するという事は、完全にゲームプレイを続けているという事です。
何も期待しないなら、もはやコマを捨てたも同然なのでゲームはそこで終わりです。

「じゃあ都合の悪い事を受け入れなければならないのか?」と思うかもしれませんが
既にそれもゲーム脳に陥っています。

コマにとって都合の良い事を期待しなくなったという事は、
同時に都合の悪い事もその重要性が無くなったという事です。
「良い事」と「悪い事」を分離していた壁が取り除かれ、
ルビンの壺みたく一つに融合した瞬間です、カッコ良く言えば良いと悪いを超越したのであります。

もうゲームから降りたんだからコマがどうなろうが知ったことではありません、
「知らんモンは知らん」というどこかで聞いたような台詞を残してゲームから降りるのです。
ipadを買って一週間ちょいが過ぎましたが、すっかりゲーム機と化しております、
最近は太鼓の達人にハマって毎日太鼓を叩く日々であります。

太鼓をノリノリで叩きながらメールを確認すると、何とリンク希望のメールが来ていたので
来るもの拒まずの精神に乗っ取り、リンクを張らせていただきました。

さあ、お前らも『ザ・マネーゲーム』から脱出しようぜ。という
「ザ・マネーゲームから脱出する法」という書籍に関するブログのようです。
いわゆるまとめサイトという奴ですね。

私はこの本は池袋のジュンク堂で見かけた事があるだけで読んではいませんが、
確かビジネス関係の書籍のコーナーにあったように記憶しています。

ネットで内容をざっと調べてみると、世界は全部ホログラム(?)であって、その事を看破する事で
お金に振り回されるゲームから脱出しようぜといったものらしく、
まさかビジネスコーナーにこんなトンデモ本がスピリチュアルに関係ある本が
あったとは思いも寄りませんでした。

まあ私は最近太鼓の達人のやりすぎで指が痛いのと、ipadで殆どゲームしかやってないことを
「豚に真珠もいいとこだ!!」と彼女に怒られたのでマネーゲームより太鼓の達人から
脱出したいんですけど。
昨日の記事で「声(音)を声(音)として認識させているものがスゴイ」みたいな事を
書きましたが、これと同じで見ているものも、あるいは聞いているものも、
それをそれとして認識させているものがやはりスゴイのであります。

私がこの何だかよくわからないスゴイものを知覚(?)したのは
だいぶ前の記事にも書きましたが自転車に乗ってていきなり「私」感覚の消失を
体験した時からです。

が、しかし。 この「私」消失の体験は今になって思うと別に大した事無い、
というか自分が消えて世界が現れる初期の段階ではなかったかと思います。

結局「私」が消えたと言っても「消えた私」を認識している「私」が居るわけですから
よく考えると別に消えてないんですよね。

と言っても、この「消失体験」からは度々「私」は消えていきました。

そしてその度に「消えた私」を認識する「私」も居なくなり、「私」とは見ている景色であり、
聞いている音であり、感じている風であるという感覚になってきました。

駅前に立ってるだけで、まさに空が頭であり、胴体は駅であり、
腕はすき家の店舗で足はケンタッキー、アソコはカーネルサンダースみたいな感覚なのです。

そんな表現はあんまりだぜと思うなら、カッコつけて言うと「雨粒の音一つにも神を見出す」という
感じです。(カッコつけ過ぎ?)

結局今まで感覚として捉えてきたものに対し、ああだこうだ喚いていただけで、
本来の私はその「捉えているもの」そのものだったのであります。
「捉えているもの」を「捉える」事は出来ません、捉えようとする行為は
全て意味が無かったのです。


この段階に達してからは、全てが自分であったという驚異的な至福感を感じ、
あまりの至福感の前にもう願望とか何だとかが吹っ飛んでしまいました。

何故なら時間も含めた文字通りの全てが己の中に存在していたからであります、
未来も過去も無く、全て「今」が自分だったのです。
CMを見る度に何故かいつも「新発売」扱いだったケンちゃんラーメンになった気分であり、
願いとか望むとかって必要無い、何て馬鹿馬鹿しいんだろうと感じました。

こうなるともう、あらゆる事柄は完璧としか見えません。
全ては、全てを感覚として「捉えるもの」が創り出した幻想であり、
「捉えるもの」が居るからこそ幻想もまた創り出されます、最近よく出てくるルビンの壺と同じです。

さっきも書きましたが「捉えるもの」を「捉えようとする」事は出来ません、
ですから結局は在るがままになるしかないのです。
在るがままを邪魔するのが、「捉えようとする」思考なのであります。

カレンダー

03 2026/04 05
S M T W T F S
1 2 4
5 6 7 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 22 23 24 25
26 27 28 29 30

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
知らん
性別:
男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
☆を@に変えてお願いします

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

Copyright ©  -- 知らんモンは知らん --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by もずねこ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]