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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「コロナワクチンを勧めていた◯身先生が最近になって
若い人は重症化しないから接種の推奨は早い段階で
辞めてた、と言っている。しかし当時は若者にも勧めて
いたしワクチンが原因と思われる健康被害も多い、
許せん。もし知らんさんの家族がワクチンで健康被害を
受けてもムカつかないのか」
という怒りのメールを頂きました、ありがとうございます。

これはフツーにムカつくと思いますが、しかし最近の
記事でも書いたように本質的には我々は身体では無い、
というのが肝要で、身体との同一化が最も強い同一化
あります。それ故にあらゆる危害に対して心配だとか
ムカつくというのは身体に危害が及ぶ、という
前提で成り立っています。

しかし身体では無い、のであるならばあらゆる心配の
殆どが無くなってしまうと思います。
この辺は話が長くなるので割愛して一言で言うと
寝ている時に身体を意識出来るか?という事なんですよ。
寝ている時にここは頭だとかここは腹だとか意識出来れば
ともかく、起きている時にしか出来ないはずなので、
そうすると身体とは意識に浮かんでいるだけ、という事に
なります。

では意識に浮かんでいるだけのモノなのに実在するのか?
意識に浮かんでいるだけのものが「私」なのか?という
問いを考えていくと身体との同一化が消える、かも
しれません。






余談ですけどワクチンに関してはまあ確かに尾◯先生は
若者にも推奨してましたね、当時は思いやりワクチンとか
宣伝してた気がします。
私は思いやりの無い人間なので結局一回しか打たなかった
ある意味レアな部類でしたが、今となってはもう
どうでも良い話ですね。

私の場合はワクチン云々より何つっても当時若者の行動を
制限してジジババを守る事に大多数の連中が賛成した事が
ヒジョーにムカつきましたね。
文字通り一度しか無い若者の青春よりヘタしたら
大型犬の寿命より早くくたばるジジババの余生を優先
した事で私はすっかり神の国日本に愛想を尽かし、
日本国民を捨て地球市民になりました。

でも当時4歳ぐらいだった娘には別にマスクなんか
しなくて良い、娘ちゃんが納得いかないならルールだと
言われても守らなくて良い、とパンク精神を教え込んだら
すっかりクソ生意気な小娘になってしまったので、
ちょっと失敗したかなぁ。
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スピリチュアル系に関して様々な考察をされている
メールとかをたまに頂きますが、考察する事自体は全く
問題無いと思いますが本質的には考察される対象に
あまり意味は無いです。

前も書いた気がしますがそもそも何でスピリチュアルを
考察するかっつーと多分何らかの利益があるであろうと
いう期待からだと思うんですよね。
これが仮にスピ系にハマるとアホになりますとかだったら
誰も考察とかしないと思います。

何が言いたいかというとスピリチュアルを知ったり
それを考察したりするのも、一つのストーリーという事で
あります。
つまり気づきを得たとか覚醒したとかもストーリーの一部
であって、「誰が」覚醒したとかは大して重要では
無い
です。

最も重要なのはその覚醒ストーリーも鑑賞している者が
いないと成り立たない
という事と、鑑賞している者も
覚醒ストーリーが無いと成り立たないという事です。

つまり観ている者も観られている者もお互いがお互いを
補完しているというか、二つで一つなんですね。
なのでスピリチュアルを追求するとか考察する場合、
観ている側に強く傾いてしまいがちですが、
観られている側があって初めて成立しているという
事です。

何度か同じ事を書いてますけど結局はルビンの壺
同じで、顔でも無いし壺でも無いのですが
しかし顔も壺も確かに存在するかのように感じられると
いう事になります。
「動物にもいわゆる自我はあると思いますが人間よりかは
本能に近いと思うので、実はスピリチュアル的には人間
より動物の方が優れているのではなかろうか?」
という
メールを頂きました、ありがとうございます。

これは鋭い指摘であります、そもそも人間も動物の一種
ですが何が人間と動物を大きく分けているのかというと
人間の場合、そのまんま「自分は人間である」という
意識が人間たらしめていると言えます。

基本的に犬とか猫とかは人間側からの分類なので、
犬や猫は自分達が犬という生き物であるとか吾輩は
猫であるとかは思っていないはずであります。
しかし人間だけが明確に自分は人間である、という
フィルターを通じて世の中を観たり感じたりしています。
なのであらゆる行動や思考の基準が全てこの
「人間である」に集約しているとも言えます。
極端に言えば人間である、が前提になっている
スピリチュアル的探求は全て前提がおかしい
という事に
なります。

ですから取りあえず人間であるという事を置いくと
ですね、では一体誰が何の為にスピリチュアル的な
気付きだ何だを求めているのか?動物と人間の根底に
流れている意識は同じであって実は区別が無いのでは
ないか?そもそもスピリチュアル的な探求自体が
自分は人間であるという虚像から発した一人芝居のような
ものではないか?という事が感覚的にわかります。

ヨガの修練でも動物になりきるっつーものがあるそう
なんですけど、これももしかしたら人間という意識を
抑えるという意味もあるのかしらとも思いますね。
「自我が幻とわかったのでウンタラカンタラ
しかしその感覚が失われてしまったので困惑している」

的なメールを頂きました、ありがとうございます。

これはかなり昔にも書いた気がするんですが
基本的に感覚を拠り所にするのはあまり良くないと
思います。

理由としては例えば「今に在る」感覚を得たとして
次の日に何かトラブルに遭遇したので、つい先日
身につけた今に在る感覚で乗り切ったとしましょう。
まあ乗り切ったんだからこれで良いんじゃねえの?
と思うかもしれませんが、これだと今に在るんじゃなくて
昨日の感覚を持ち出してるわけですから過去に在る事に
なってしまいますよね。
逆に何か上手くいかなくてこれじゃあダメだと思っても
それもまた昨日の感覚を基準にしているのでやっぱり
過去に在る事になります。

なのでスピリチュアル系で感覚的な説明はよく出てきます
が、基本的にアテにしない方が良いです。
説明する方が書籍なり何なりに書く時は私が修行の果てに
体感した光は、とか、あの時に私は神を見たのだ、とか
の表現をせざるを得なくなるのはしょうがないんですが、
読む方がそれに振り回されるとあの時の感覚をもう一度
みたいな、いつまでも昔の恋愛引きずってるような感じに
なるので、スピリチュアル的な話を聞いてこれは感覚的な
何かを得る事だと思ってしまうと堂々巡りになる恐れが
あるのでその辺は注意した方が良いかもしれません。

結局は何かを得る事も無いし、何かを失う事も無いので
あります。
かなり昔の記事になりますが当ブログでは
「過去にも未来にもとらわれない生き方」という書籍を
お勧めの本として紹介した事があるんですが、
その本の著者であるステファン・ボディアン氏が
三年前に「マインドフルネスを超えて」という新刊を
出していたそうで読者の方からのメールで教えて頂き
ました、ありがとうございます。

というわけで久々にスピリチュアル系の書籍を読んで
みましたが、感想としては正直「過去にも未来にも〜」
の方が良かった気がします。

マインドフルネスは観察しようとする事で
観察する対象と観察される対象に分離してしまうから
、そうじゃなくてそれらの根本を成している気付きに
留まれみたいな内容なんですが、これを説明しようとして
色々な方向へ話が飛んでる感はありましたね。

まあ気付きに留まれの一言だとチラシの裏に書けば
終わってしまい本として成り立たないのでしょうがない
んですが、内容をやや無理に増量している感があって
スピリチュアル本としては「過去にも未来にも〜」の
方が完成度は高かったかなあという感想です。

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