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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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前も書いたと思うんですが、願望実現メソッドとかに取り組む人は基本的には
非常に強いコントロールの欲求を持っている事が殆どです。

悪い事を操作しようと思うのはわかるんですが、面白いのは「良い事」すら
操作しようとしている所
ですね。

例えばお金が欲しいなら金額はこれぐらいとか、恋人が欲しいならこれこれこういう
人が良いとか、妙に具体的に指定したりする人もいるかもしれないですが、
結局何故細かく指定するかというと、自分に(エゴに)とって「悪い事」「不安に思う事」を
なるべくカットしていきたいと無意識に思っている事が多いようです。

これは結局の所「悪い事」「不安」に焦点を絞っている事とまったく同じです。
「願望実現メソッド」が現実逃避のための精神安定剤になりやすい原因の一つはここにあります。

思いきりざっくり言えば、何で色んなメソッドを探すかというと行き着く先は
「はやく幸せになりたーい」って事なんですよね、だったら色んな「幸せになる条件」を
設定しないで幸せになってしまえば良いのです。

この「幸せ条件」は「エゴに気付かねば!」とか「思考を止めねば!」とかいうのも
やはり条件の一つであります。じゃあオマエが今まで書いてたのは何なんだ、と思われると
思いますが、ある程度説明する以上はどうしても「~を~しましょう」みたいな
「方法論」の呪縛から逃れられないのです(オマエに文才が無いんだろというツッコミは
勘弁してください)

ここで注意して頂きたいのは、「幸せ」の意味する所はエゴにとっての「幸せ」では
ないという事です。以前も「完璧」はエゴにとっての完璧ではない、という事を
書いた記憶があるんですが、それと同じです。言葉で書くと「幸せ」しか無いのです。
だからと言って、「じゃあ結局なにも叶わないの?」という事ではありません。
結果的に後から振り返ったら叶ってましたみたいな感じになるでしょう。

この「幸せ」を感覚的にいうと、部屋の中で埃がたまったり、外で強風が吹きまくったりする事は
無秩序に見えますが、そこに秩序がある事を感じるような感覚です。
文章にすると新興宗教の勧誘みたいになってしまうのですが、
神の意志に近づくという事です(宗教的な意味合いではありません)

正直言って神だとか何だとかいう表現はあまり好きではないので、
「神の意志」の部分を「すき家の意志」とか「松家の意志」にしてもOKです。
そう、世界を支配しているのはなんと「すき家」だったのです(爆)

今回は自分でも何書いてるか途中からわからなくなってしまいましたが、
条件を外してしまえば何だって良いのよ、という話でした。

(あれ、この一言だけで良かったような・・・)
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度々書いている「思考を止めてどうたらこうたら」ですが、
止めようとすると意外と止まらないものです。
自分で書いた内容を読み返してみると「止めましょう」しか書いてなくて
肝心のやり方を丸投げしていました。
あまりメソッドとして強調するのはエゴが騒ぎ出すので(ぜひ身につけねば!とか)
書くのはどうかなあと思ったのですが、とりあえず書いてみます。

まずコツとしては普段から我々は結構思考を止めている事を知る事です。
例えばトイレに行こうと思い、用を足してトイレから出てきたとします。

これを事細かく説明するのは意外と困難です。便座に座りました、ウ〇コしました、
ウォシュレットの水圧を最大にして発射しました。流しました、トイレから出ました。
ああ、スッキリさわやか。

とこれぐらいまでは説明できると思いますが、
では便座にどのような角度で座ったのかとか、ウ〇コはいかなる形だったのかとか
ウォシュレットは何秒間発射していたのかとか、それ以前に手洗ってないだろとか
そういった部分までは恐らくわからないと思います、
つまりその辺は思考が止まり、「今」にしか居ないのです。

何の事は無い、これだけです。
普段から誰もがやっているというか、誰もがわかる感覚だったのであります。
つまりスキルでもメソッドでも何でもない、あまりに当たり前過ぎる感覚というか、意識です。

つまんねー と思われた人もいるでしょうが、本当に何の訓練もいらないのです、
それに気付くかどうかだけであって、別に瞑想もいらないし、愛を送ります!とかしなくても良いのです。
我々は最初から「今」に居たのです。

実に簡単なので、ヒマな人はゴロゴロしながらでもやってみましょう。
度々書いている「思考を止める」という事ですが、何故思考を止める事が
大事なのかと言いますと、エゴは思考をとっかかりにして活動を始めるからです。

大体、痛いとか苦しいとかの一般的に「ネガティブ」とされる思考にくっついて、
起きてもいない未来の事や、後悔している過去へとタイムスリップして
「こうなると嫌だから」、あるいは「もうこうなるのは嫌だ」
「だから~をしなきゃいけない」という思考へと導きます。

「だから、瞑想しなきゃダメだ」「だから、神に祈らないとダメだ」
「だから、ナントカメソッドをやらないとダメだ」

「だから、このブログを読まないとダメだ」(一番ダメです、すぐにやめましょう)

前もちょっと書きましたが、エゴに「今」を明け渡していると、結局そこを起点にした
未来も過去も、エゴによって操られた、エゴにとって心地の良いストーリーの中に
いる事になってしまいます。これは無理矢理ポジティブシンキングをして
表面上は希望に満ちた思いで満たしても同じ事です(希望に満ちて未来に向け頑張る、という
エゴが用意したストーリーにいるだけです)


語弊がある言い方ですが夢も希望も無いんですよ、夢も希望も
エゴが消滅しないために用意したおやつみたいなもので、それに釣られると
見かけはポジティブに頑張ってる感じになるのでやっかいと言えばやっかいです。
「今」をエゴに明け渡さなければ、夢や希望が生まれる余地はありません。
何故なら「今」に不足は無くなってしまっているからです。

不足が存在するから「それらの不足を解決できる!」という「夢」と「希望」が生まれるわけで、
不足を感じなければ夢も希望もクソもありません。(ついでに「不足だらけだ」という「絶望」も
生まれません
)思考が止まると、不足も無く、夢も希望も絶望も無い世界が見えてきます。

それは非常に味気ない世界なのでしょうか?違います、とても愛に満ちた(この表現も
伝わりにくいからあんまり使いたくないんですけど)
世界です。

エゴに操られている時は、ゲームで言えばプレイヤーの立場です。難しい面をクリアしたり、
強いモンスターの尻尾を切ったり、皮を剥いだり、生肉を焼いたりする事に喜びを見出します。
(実際は喜びを見出しているのはエゴです)

でもクリアできなかったり、逆にモンスターに踏み潰されたりして、うまくいったり、いかなかったり
の繰り返しです。今度こそクリアするぞという希望、あるいはもうこんなクソゲーやってられっかという
絶望が現れては消えていきます。

エゴに気付き、エゴからの解放を垣間見ると、今度はゲームをアップグレードする
プログラマーの立場へと視点が変わります。プログラマーにとっての喜びは、自分の創った
ゲームの世界が完璧に調和している事です。そこには希望も絶望もありません、
ただ純粋に「在る」だけなのです。そこに無常の喜びと幸せが感じられるのです。

ですから「今」考えている事は本当に純粋な「今」なのか注意してみて下さい。
知らず知らずの内にエゴが作り出したストーリーを生きていないか
感じてみる事が大事です。もしも「エゴが作ったストーリーの中にいる」と気付けたら、
もうそれで終わりです。幻に気付けたら、もう幻には何の力もありません。
スピ系に必ずといっていいほどついてくるのが「瞑想」ですよね。

瞑想についてですけど、私個人は瞑想を専門的に習ったとかそういう事は
一切ありません。せいぜいwiiフィットでやった事があるぐらいで、
専門的な瞑想の本とかも読んだ事がありません。

布団の上でゴロゴロしてる時なんかに、勝手に湧いてくる様々な感情や思考を
ただあるがままに感じる、という事はヒマ潰しにたまにやりますけど、これを果たして
瞑想と言えるかどうかは微妙ですよね。傍から見るとただ単にゴロゴロしてるだけだし。

度々紹介している書籍「過去にも未来にもとらわれない生き方」だと、
上記のようなゴロゴロ瞑想でも瞑想だ、みたいなニュアンスで書いてあったような気もしますが、
要はあまり形にこだわらずに「今」に在れば良いのではとも思います。

あと願望実現メソッドとかだと、瞑想して変性意識(?)みたいな状態になった時に
願望をイメージすると実現しますとか書いてある本も大昔に読んだ記憶が
あるんですけど、これは瞑想にかなり熟練していないと難しいのでは?というのが
個人的な感想です。瞑想をツールとして扱うと、結局はエゴが大暴れして
堂々巡りになりそうな感じがしないでもないですね。

あくまでも「今」を感じるツールとして瞑想ぽい事をやるなら、逆転の発想で
騒音とか話し声とか聞こえてくる騒がしい状況でやった方が良いのではとも思います、
何故かというと「うるせー音」とか「心地よい音」とか判別しているエゴに気付けるからです。

さらに一歩進んで、沈黙を「沈黙である」と判断しているのもエゴである事に気付ければ、
全ては一つであるという真理に近づく事が出来ます。

つーか、今日のタイトルはちょっと苦しかったなあー
あなたを形作っているのは他でもないあなた自身の概念です。
朝、起きるといつもの布団かベッドに寝てて、いつもの部屋に居て、
鏡を観るといつもの顔がある。

こうしてあなたは「自分である事」を確認するわけです。
朝起きたらグランドキャニオンの頂上だった、なんて事に
なったらパニくると思います。何でパニくるのか?いつも無意識に作っている
「自分」という設定が狂うからですね。四畳半の部屋に寝ているのが
デフォルトなのに何故グランドキャニオンなんだ、となるからです。
久々に大規模MMOにログインしたら自分の家が無かった、みたいな感じです。

恐らく誰もが毎朝この「自分」を形作る儀式みたいな事をやっています。
そして形作った「自分」に様々な制限を設けています。

制限をやめましょう、と言うと「それでは明日の朝から起きるたびに
完璧だ!と唱えます。爽やかな日の光に感謝します、愛を送ります。
四畳半ではなく豪華な部屋で目覚める私をイメージします」とか
思ってしまうかもしれませんが、それも制限です。そんなくさい台詞唱える必要なんて
ありません、
四畳半から愛を送られても困ります。それよりも「何もしない」事です。

今までオートマチックにやっていた「自分」を作る儀式をやめる事です。
「自分」というキャラ作りをやめてしまうのです、それだけです。
それだけで、何かに気付けます。

いい加減ウルティマオンラインやモンハンから卒業しましょう、
無意識にログインしてプレイヤーになるより、アップロードをする運営側に
なろうじゃありませんか。どんなレアアイテムだろうが、運営側が操ってるんですから。

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男性
職業:
食う寝る遊ぶ
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超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
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