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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「前回の記事で人生に間違いは無いから楽しんだ方が
良いとありましたが、どうやって楽しめば良いか
わからない」
というメールを頂きました、
ありがとうございます。

シンプルにまとめると、楽しむ云々の前に多分お金が無い
とか友達がいないとかそういった自我の叫びみたいのが
あると思うんですが、金が欲しいとか友達が欲しいとか
愛人が欲しいとかは全然良いと思います。
ただ多くの場合、例えばお金を望む事は自我が騒いで
いるのを鎮める為である事が殆どであります。

しかしそれだと自我に気を使っている事になってしまい
ますよね、子供がギャーギャーうるさいからお菓子あげて
黙らしとけ的な感覚ですね。
そもそも何故、自我に気を使う必要があるのか?という
事です。スピリチュアル系では自我のご機嫌を取るため
ではなく、自我というのはある種の催眠というか幻である
という認識に至る事が肝要です。

なので取りあえず自我に対して気を使わない事が
本来の主体に戻るメソッドと言えばメソッドになります。
前述の通りお金欲しいとか愛人欲しいとかは別に良い
んですが、自我を鎮める為、自我の機嫌を取る為の方向に
行きがちなのが少しややこしいですね。
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「前回の記事を読んで悩みも希望も無いとなると非常に
虚しく感じ、虚無主義に陥りそうになる」
というメールを
頂きました、ありがとうございます。

基本的に悩みとか希望とかは付きまとう物ですし、
別に無理矢理無くそうとか感じるのを止めようとかする
必要も無いです。

あまり良い例えじゃないですが、例えば子供が産まれた時
は多くの人が希望を持ってハッピーだと思いますが、
将来その子がトンデモない悪人になったとしたら、
ではその子が産まれた時に持った希望はウソだったのかと
言うとそんな事は無いでしょう。

逆も然りで、産まれた時にすさまじいバカでダメだコイツ
と悩んでいた子供が突然覚醒して人類に多大な貢献をする
天才になったとしても、最初にダメだコイツと思っていた
悩みはウソだったのかと言うと、やはりそれも無いと
思います。

結局の所、自我の狭い範囲でしか良いとか悪いとかは
判断出来ない
ようになっているのであります。
これはそういう仕様みたいなものなので、この狭い範囲
だけで苦楽を処理しようとするとオーバーヒートするので
行き着く先は虚無主義的なものになります。

なので最初から処理出来ないものは放置すると良いで
すし、自分の選択については自由意志がどうのこうの
以前に間違いというものはありません。

基本的に常に自我は狭い範囲でベストだと感じる事を
選択します。例えば分かれ道があったとして右は普通の
舗装された道、左は荒れ果てていてしかもちょっと先に
明らかに危なそうなオッサンがウロウロしていると
なったら確実に右に行くと思われます。

しかし仮に左に行くとオッサンに攻撃されて怪我する
ものの、一ヶ月後には宝くじが当たって莫大な臨時収入が
入るフラグが立つと知っていれば左に行く事が正しく、
右に行くのは間違っているのかもしれません。
しかしそこまでは自我の範囲ではわからないので、
結局その時に感じた選択がベストなのであります。

つまり人生に間違いなんて無いんですよ、
なので虚しさを感じるぐらいなら常に正しい中で
どう楽しむのか?を考えた方が良いでしょう。
スピリチュアル系でよく言われる自由意志があるとか
無いとかは実際の所、どうでも良い話なんですが
そもそも意志を決定するというのは枠組みの中に
居るからこそ、
という前提があります。

例えば将棋とか囲碁とか自分の意志で次の手を指したり
打ったりしてるように思えますが、あくまでも盤面の中と
ルールの範疇であって自己の意志で考えているという
よりは"考えさせられている"という事になります。

なので人生において何らかの苦悩とか希望というのも
あくまで盤面の中のモノであって、それについてあれこれ
考える必要もありません。

特に厄介なのは希望を持つ事で、ポジティブに捉えている
時はともかく、希望を求めすぎると結局それが盤面の
中での足枷となる事が多いです。希望を持つなとは
言いませんが苦悩も希望もそれらは"持たされている"ので
あります。
持たされているのであれば、すぐに捨てる事も出来るし
捨てた所で何も問題はありません。

もっと言えば自由意志がどうのこうのという話・概念
ですら自己の人生という枠組みがあるという前提での
モノになります。
例えば将棋で駒が勝手に動いていくかのように見える
ナントカ戦法というものがあったとして、
じゃあそれを勉強しようとなるのは将棋の盤面とルールが
ある事前提ですから、将棋自体が無かったらナントカ戦法
を勉強する事が特に意味が無い話になります。

というわけで言葉や文章はよく言われるように
月を指差す指であって月では無いので、
どんなにスピ系のありがたい話を読んだり聞いたりしても
その辺は忘れない方が良いと思います。
前回の記事の続きみたいになりますが、今に在るとか
どうしたこうしたというのを体感出来るかどうかと
言うと、基本的に自我で体感するというのは難しいです。

何でかつーと自我の働きというのはその名の通り
自分・我があるという感覚なので、自分にとって都合が
良いか悪いかしか判断しない所があります。

言い換えれば記憶を頼りにどれが安全か?を常に探して
いるものなので例えばお金が増えたら安全、無くなったら
危険とか、こっちを選んだらヤバそうだけどこっちなら
セーフとか、ものすごく雑にまとめるとヤバいかヤバく
ないかの判断を勝手にやってるだけ
です。

こうして記憶からあの時はこうだったからとか
この時はこうしたからとかで行動を勝手に決められ、
そしてそれが自己の意志に基づく自己の人生であると
誤解し、結果として"私"は存在する!と認識させるのが
自我の仕組みであります。

なので今に在る云々とかもそれは自我にとっての安心感
であって、体感を求めるものではありません。

重要なのはこれは安全とかこれは危険とかの判断を勝手に行い、それに基づき勝手に人生を生きていると誤解している
という認識に立つ事です、
別にこれは赤信号でも突っ込めとか明らかに賞味期限
切れてるのに無理矢理食えとか言ってるのではなく、
自我の判断のもとに動かされていたのだと知る事で
あります。

つまり最初からあなたの人生なんてのは無いし、
人生を動き回っているあなたも居ません、
不動であります。
「現在の定義って未来と過去の狭間なので、だとすると
スピリチュアルでよく言われる未来も過去もないなら
今はどこにあるのか?」


というメールを頂きました、ありがとうございます。

前も書きましたが今を感じましょうとか今に在るって
右眼を右眼で見てみましょうとか左足を左足で踏んでみろ
とか言ってるのと同じで基本的に無理です。

なのでそのような試み自体をやらない方が良いです。
そもそも何で今を探そうとするのかっつーと、
何かそっちの方が良さそうとか何か色々上手く行きそうと
いう期待があるからだと思うんですよね。

しかしですね、今に在ったところで別にお金が入って
くるわけでもないし恋人が出来るわけでもないし
喧嘩が強くなるわけでもありません。
というのを聞いたら言い方悪いですけどスピリチュアル系
に縋っている人達は絶望すると思うんですよね。

絶望すると今に在ろうもクソも無く、もう何もかも
終わりや、何の意味も無かった。となるかもしれませんが
その瞬間、つまり過去を意識する事も無く未来にも
期待しないその瞬間が今であります。

つまり今に在ろうという試み自体が過去や未来を
わざわざ作ってそこの隙間に入り込もうとする無理ゲー
なんですよ。
であるならば最初から過去も未来も無い状態が実は
デフォルトであると知る事であります、そしてそれを
垣間見るのは未来への希望では無く今に対する絶望
なんですね。

絶望するからこそ過去や未来、そして今に執着する自我を
断ち切る事が出来るわけです。
人生オワタ、ならばもう過去や未来も無いって事ですから
最初から今にしか居ないんですよ。

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