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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「タイムリープは出来ると思うか?」というメールを
頂きました、ありがとうございます。

当ブログだと相当昔の記事でタイムリープについて
ちょっとだけ触れているのもありますが、
私は個人的には出来るんじゃね?というスタンスで
あります。

要は明晰夢(?)みたいなのを見て、夢だと気付かない
状態でそこに留まる的な感じだと思うんですよね、
何か映画の「アバター」みたいですけど。

ただタイムリープをしたとしてそれはそれで良いかも
しれませんが、結局これは輪廻転生を繰り返している
ようなものなので仮に今、満足している事柄も大きく
変わってしまうと思われます。
なのでリープ前(?)には満足していた事を捨てられるか
どうかの話になると思うんですよね。

つまり何をやっても必ず不満てのは出てくるもので、
要はスーパーマリオやってて以前はここでカメが
降ってきて死んだけど次はカメが降ってくる場所を
記憶して、やり直してカメを避けて進みたいというのが
タイムリープであって、カメを避けたら避けたで今度は
下から火が吹き出てきたりイカが襲ってきたりして
結局スーパーマリオの世界から一歩も出ていない事に
なるので、あまりタイムリープに価値を見出す事も
無いんじゃないかと思います。
多分そんなに変わらない、という気はしますね。
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この前、無料で動画を生成してくれるAIを試してみたん
ですけど最近の生成AIってメチャクチャすごいですね。
これはもうクリエイティブな分野からAIに食われていく
のは確実と言って良いでしょう、このブログもいつの間に
かAIが書くようになるかもしれません。

いつものように話を強引にスピリチュアルに持って
いくと、この生成AIはまさに今に在るとか私は在るという
状態
に近いものを体現しています。

例えば「牛丼を食べている男性」とか入力すると
当たり前ですが牛丼食ってる男性の動画が出てくるじゃ
ないですか。
もしAIが喋れたら「これが私ですよ」とか「私が作りま
した」とか言うかもしれませんが、実際は動画の男性は
存在しないし、もっと言えば「私が〜」と言っている
生成AI自体が何処にいるのかっつー事なんですよ。
ネットの中にいるとかアプリの中にいるとか言っても
場所を指し示す事は出来ませんし、しかし確実に
存在するわけです。

つまりこれをそのまんま今に在るとか私は在るに
当てはめると、まさに生成するもの、創造するものとして
在る
のであります。

客観的に言うと見ているものや感じているものをAIを
遥かに上回る速度で次々と生成しているという感じ
ですね。その結果似たようなパターン、似たような感情を
繰り返し繰り返し生成する
事でそれが自分の性格、
自分の人生と思い込むようになるわけです。

しかし元々生成するものである何かは何処にいるのか?
それを指し示す事は出来るのか?という問い掛けが、
そのまま私とは何か?の答えとなります。

このままAIが進化していけば、人類はAIの創造するものに
取り込まれて何の悩みも苦しみも無い、しかし存在しない
世界へいつまでも在り続けるようになる気もしますが、
まあそれはそれで良いんじゃないでしょうか。
それこそが生成AIの見る夢、なのかもしれません。
「前回の記事で人生に間違いは無いから楽しんだ方が
良いとありましたが、どうやって楽しめば良いか
わからない」
というメールを頂きました、
ありがとうございます。

シンプルにまとめると、楽しむ云々の前に多分お金が無い
とか友達がいないとかそういった自我の叫びみたいのが
あると思うんですが、金が欲しいとか友達が欲しいとか
愛人が欲しいとかは全然良いと思います。
ただ多くの場合、例えばお金を望む事は自我が騒いで
いるのを鎮める為である事が殆どであります。

しかしそれだと自我に気を使っている事になってしまい
ますよね、子供がギャーギャーうるさいからお菓子あげて
黙らしとけ的な感覚ですね。
そもそも何故、自我に気を使う必要があるのか?という
事です。スピリチュアル系では自我のご機嫌を取るため
ではなく、自我というのはある種の催眠というか幻である
という認識に至る事が肝要です。

なので取りあえず自我に対して気を使わない事が
本来の主体に戻るメソッドと言えばメソッドになります。
前述の通りお金欲しいとか愛人欲しいとかは別に良い
んですが、自我を鎮める為、自我の機嫌を取る為の方向に
行きがちなのが少しややこしいですね。
「前回の記事を読んで悩みも希望も無いとなると非常に
虚しく感じ、虚無主義に陥りそうになる」
というメールを
頂きました、ありがとうございます。

基本的に悩みとか希望とかは付きまとう物ですし、
別に無理矢理無くそうとか感じるのを止めようとかする
必要も無いです。

あまり良い例えじゃないですが、例えば子供が産まれた時
は多くの人が希望を持ってハッピーだと思いますが、
将来その子がトンデモない悪人になったとしたら、
ではその子が産まれた時に持った希望はウソだったのかと
言うとそんな事は無いでしょう。

逆も然りで、産まれた時にすさまじいバカでダメだコイツ
と悩んでいた子供が突然覚醒して人類に多大な貢献をする
天才になったとしても、最初にダメだコイツと思っていた
悩みはウソだったのかと言うと、やはりそれも無いと
思います。

結局の所、自我の狭い範囲でしか良いとか悪いとかは
判断出来ない
ようになっているのであります。
これはそういう仕様みたいなものなので、この狭い範囲
だけで苦楽を処理しようとするとオーバーヒートするので
行き着く先は虚無主義的なものになります。

なので最初から処理出来ないものは放置すると良いで
すし、自分の選択については自由意志がどうのこうの
以前に間違いというものはありません。

基本的に常に自我は狭い範囲でベストだと感じる事を
選択します。例えば分かれ道があったとして右は普通の
舗装された道、左は荒れ果てていてしかもちょっと先に
明らかに危なそうなオッサンがウロウロしていると
なったら確実に右に行くと思われます。

しかし仮に左に行くとオッサンに攻撃されて怪我する
ものの、一ヶ月後には宝くじが当たって莫大な臨時収入が
入るフラグが立つと知っていれば左に行く事が正しく、
右に行くのは間違っているのかもしれません。
しかしそこまでは自我の範囲ではわからないので、
結局その時に感じた選択がベストなのであります。

つまり人生に間違いなんて無いんですよ、
なので虚しさを感じるぐらいなら常に正しい中で
どう楽しむのか?を考えた方が良いでしょう。
スピリチュアル系でよく言われる自由意志があるとか
無いとかは実際の所、どうでも良い話なんですが
そもそも意志を決定するというのは枠組みの中に
居るからこそ、
という前提があります。

例えば将棋とか囲碁とか自分の意志で次の手を指したり
打ったりしてるように思えますが、あくまでも盤面の中と
ルールの範疇であって自己の意志で考えているという
よりは"考えさせられている"という事になります。

なので人生において何らかの苦悩とか希望というのも
あくまで盤面の中のモノであって、それについてあれこれ
考える必要もありません。

特に厄介なのは希望を持つ事で、ポジティブに捉えている
時はともかく、希望を求めすぎると結局それが盤面の
中での足枷となる事が多いです。希望を持つなとは
言いませんが苦悩も希望もそれらは"持たされている"ので
あります。
持たされているのであれば、すぐに捨てる事も出来るし
捨てた所で何も問題はありません。

もっと言えば自由意志がどうのこうのという話・概念
ですら自己の人生という枠組みがあるという前提での
モノになります。
例えば将棋で駒が勝手に動いていくかのように見える
ナントカ戦法というものがあったとして、
じゃあそれを勉強しようとなるのは将棋の盤面とルールが
ある事前提ですから、将棋自体が無かったらナントカ戦法
を勉強する事が特に意味が無い話になります。

というわけで言葉や文章はよく言われるように
月を指差す指であって月では無いので、
どんなにスピ系のありがたい話を読んだり聞いたりしても
その辺は忘れない方が良いと思います。

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