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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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世間は連休に入りましたが皆様どうお過ごしでしょうか。
私は顔も性格も悪いが飯炊きだけは上手い彼女の買い物に何時間も付き合わされて
生死の境を彷徨っております。

最近、何故かメールが急増しました。
当たり前ですがブログの内容についてが多いのですが、
別に理解しましたとかよくわかりませんとか関係無いのですよ、
わからないからといって、その「わからない」という思考を認識しているものは
別にわからないとか何だとか悩んでないでしょう。なので最初から悩みなど無いのですよ、
おめでとうございます。

別にこのブログに関係無く、何かをわかったから偉いとか、わからないからアホとか
どうでも良いのであります。

前回の「お金は誰かに渡さなければ価値が無い」と同じで、才能とか何だとかは
それらを誰かに見せねば何の価値もありません、というか見てくれる誰かが必要なので
あります。

「俺は超エリートだーっ!!」と某サイヤ人のように叫んだ所で、
誰も居なかったら単なるアホです。才能そのものも、お金と一緒で実は実体が
無い
のであります。

結局あらゆるものは全て、見るものと見られるものによって体現されているのです。
そして両者を統合しているのは他でもないあなた自身なのですから、
理解出来ないとかわからないとかの思考があっても、それらも見るものと見られるものに
よって現れ、それらを統合するあなたが居るから出て来れるのです。

なので最初っからあなたは全てであり、何も求めるものも無いし、理解すべきものも
ありません。
某サイヤ人はしょっちゅう修行ばっかしてましたが、
いくら修行しても無いものは無いのですから、スピ系の書籍とかを修行みたいな感じで
読んでも無意味です。

ああいうものは高次元存在だ何だとかいう魔人ブウみたいなものを
読み物として楽しめないと却って苦しくなります。
修行僧になった気分で真剣に読みたい、というなら別にそれでも全然OKですけど、
それでああでもないこうでもないと苦しむなら本末転倒ではなかろうかと感じます。

まあ私としては女性の買い物に付き合う事の方が、色んな意味で修行だと思うでござる。
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「世界は自分であった、という感覚を掴んだがたまに感覚が消える、どうすれば良いのか
悩んでいるでござる。」というメールを頂きましたが、これは恐らく「世界は自分であった」
いう言葉に惑わされて、強い電波を発しただけだと思われるでござる。

まず「感覚を掴んだ」というのが曲者で、これも前から書いてますけど
感覚を掴むって事は「それが掴まれる前」が無いといけませんよね。
まあ文章で書くとどうしても「何かを発見した」「何かを掴んだ」となってしまうのが
理解を困難なものにしているのは否めませんけど。

で、昨日も書いたように、例えれば我々は最初から海なので(最初から世界なので)
海が新たな海を獲得する、という事はあり得ません。
なので「感覚を掴む」という自体が何かおかしいのです。
海が海であるためには何かを獲得するのではなく、どんどん捨てて行く事になります。

別の言い方をすれば、地面を掘って穴が出来たのではなく、最初から穴はあったのです。
穴の上に土や砂があったから地面になっていただけです。
そして最初から穴があったからこそ、地面もある、全ては相対的な流れの一部です。

全ては最初から相対的な流れの中に納まっているわけで、
自我も流れの一部分に過ぎません。
流れは肉体が生まれる前からずっと在り続け、肉体が消滅しても、やはりずっと在り続けます。

先の例で言えば、地面を掘って穴が出来る前から穴が(空間が)ずっと在り続け、
穴を埋めてもやはり穴は(空間は)在り続ける
のと同じです。

つまり流れの中にいる穴にとって、土や砂がいくら大量にあろうが無かろうが決して
自らは侵される事は無いのです。なので最初からあなたはずっと在り続けていたわけで、
「感覚を掴んだ」りする事は無いですし、「何かに目覚め」る事もありません。
例えそのように強く感じたとしても、です。

言葉で示す事の出来るものは、結局は全てまやかしです。
本当に感覚や目覚めがあるなら、自我が眠っている熟睡時でも感覚を感じ、
目覚めを感じているはずです。

自我が起きている状態でしかそれらを差し示す事が出来ないという事は、
結局は自我が勝手に作った自我にとって都合の良い物語であり、真実ではありません。

なのでこのブログに書いてある事も、もちろん真実ではありません。
スピリチュアルで最も危険なのは何でもかんでも鵜呑みにする事と、
特定の言葉や表現を変に権威付けする事です。

こんなブログを真面目に読んではいけない、と度々書いているのは
そういう事ですが、まあ真面目に読んでる人なんて元からいないと思うので
その点は心配ないでしょう。





自我にとって都合の良い、というのはスピ系でよく用いられる用語(?)を見ても
よくわかります。愛とかインナーチャイルドとか高次元存在とかすき家の意志とか、
実に心地の良い言葉が溢れていますが、前述したように我々の本質は決して侵される事が
無い存在なのですから「いつも私を見守るインナーチャイルドさんありがとう、
愛しています」とかキモい事を素敵な事を書かなくても良いのです、
表現はどうでもよいのであります。

なので「常に俺をつけ狙う高次元から来た殺し屋が部屋の外にいる、
今度こそ返り討ちにしてやる」とか書き連ねるハードボイルドなスピ系ブログとか
面白いんじゃないでしょうか、私は読みませんけど。
先週あたりも同じネタで書きましたが、この前もプロ棋士とコンピューターの対局が行われ、
またもプロ棋士側が負けてしまったようであります。

まあ前も書きましたが「ゲームに参加していない」コンピューターに勝つ事は、
これからコンピューターがどんどん進歩していくに伴い、相当に困難な事になっていくでしょう。

コンピューターは将棋というゲームを行っているという認識すら無いと思います。
盤面に置かれた駒に対し、相手も無く己も無く、ただ単に様々な要素を数値として判断し、
黙々と作業を行っているだけでしょう。

コンピューターが「将棋を指している」と感じるのは人間の感情を通してだけで、
当のコンピューターはまさに簡単なお仕事をこなしているだけです。

将棋コンピューターには自由意志もありません。
与えられた数値に対し決められたリアクションを行っているだけで、
それらが人間から見た場合、将棋を指しているように見えるだけです。
突然コンピューターが自由意志をもって麻雀をやりたいとか言い出して、
7六歩の代わりにそれポンです、とかは決して言わない(言えない)のです。

我々が見ている世界も、結局はコンピューター将棋の中身みたいなもので、
普段の社会生活や諸々の出来事も自我を通して見ている、感じているから
「自由意志に基づいて生活を営んでいる」ようになるだけです。

将棋コンピューターというものは存在しているのに、それが様々な数値に対して行う
リアクションの結果は「人間」という「観察者」が居て初めて「将棋」となるのであります。
これをスピ系に強引に持って行くと、「意識」は存在するが「自我」が居ないと「世界」は
出て来れないというのに似ています。

結局我々の本質は何処にも存在しないが、何処にでも存在出来る意識なのですが、
それじゃつまんないので将棋やろうぜって事で、自我を通して様々なゲーム(出来事)を
楽しんでいるのです。

なので楽しいゲームを構成している要素全てに感謝しましょうって事で、
スピ系では愛とか感謝の気持ちとかの表現が多用されるのですね。
マリオが面白いのもクリボーやクッパのおかげです、ありがたやありがたや。

そしていつしかゲームに没頭して自我の感じる不幸や幸せを本物だと思い込んで
ああでもないこうでもないと騒ぎ出すのですが、ふとした拍子に本質を思い出し、
再び穏やかな意識へと帰るのであります。

まさに一人の人間の輪廻転生はこの繰り返しです。





余談ですが、よく昔のSFアニメとかでロボットがいつの間にか人間の心を持ち、
最後に主人公かヒロインを守ってボロボロになって「ワタシハ、アナタノコトガ、
スキニナッテシマイマシタ・・・オゲンキデ・・・・ガクッ」


で、「最後に人間の心を持てて幸せだった」みたいな展開がありますけど、
あれって「本質的な意識」として活動していたロボットに人間のエゴを植え付けたわけで、
全然幸せでも何でもないし、見方によってはかなり酷い事をしていると思うのですが、
こう思ってしまうのはただ単に私の性格がひねくれてるからでしょーか。
読者の方から般若心経の現代語訳を教えてもらいました。
ttp://alfalfalfa.com/lite/archives/6348666.html


何か怪しいラップのようなイカした歌詞(?)ですが、
言ってる事は大変に含蓄ある事だと思います。

多くの宗教も結局は殆ど同じような事を言っていると
思いますが、それをどのように捉えるかは人それぞれなので、
言葉にすると様々な解釈が出てきてしまうのが難しい所ですよね。

私も般若心経の現代語訳は初めて見たので、般若ってすごいなあと思いながら
イカした現代語訳をリズムに乗って脳内で再生していましたが、
いつの間にか子門真人の声で再生されるようになってしまったので困っています。

意外に思われるかもしれませんが、私は芸術作品を見るの結構好きなんですよ。
上野の国立美術館とかよくウロウロしてます。
ついでに上野動物園にもたまに居ます、
昔から好きな動物はフラミンゴです。あれは何時間見てても飽きない。

ガキの頃は祖父にねだれば殆ど何でも買ってもらえましたが、
さすがにフラミンゴは買ってもらえませんでした。
ちなみに祖父は何故かキジを飼っており、死んだ後に剥製にして玄関に飾ってありました。

話が逸れましたが、優れた芸術は時間を忘れさせ、自我の働きも静め、
まさにその場に在り続ける事を可能にしてくれます。

で、自我の働きが弱まれば、何でもかんでもある種の美しさみたいのを感じて
勝手に感動するのですが、これを利用して何でもかんでも芸術にしてしまえメソッド
あります。

例えば非常にネガティブな感情を感じたら、その感情が絵画でも彫刻でも剥製でも
何でも良いですが、とにかく物質としてイメージしてしまうのであります。

トンデモなくグロい彫刻とか出てくるかもしれませんが、それを見た時の
息を呑むグロさも、一部の現代アートとか戦争の悲惨さを訴える写真とかを
見た時の一瞬の「間」に似ています。

重要なのはグロいイメージが出た時点で、既にネガティブから解放されているという事で
あります。これが段階を踏むと、あらゆるものに善も悪も無く、ただ在る事に対し
ある種の美しさを強く感じるようになります。

スピ系の本とかで「周りのものがキラキラ輝き、美しく感じた」とかの描写が出てくる事が
ありますけど、誇張でも何でもなくそのように感じる事は多々あります。

結局は全ては自分でもあるので、それらを構成しているある種の美しさが
本質的なモノの一部なのでしょう。







余談ですが最近、竹島や尖閣諸島を巡る問題で、私の周りでも韓国や中国に対し、
良い感情を持たない人が結構出てきました。

私は中華料理は好きなので中国は好きですが、キムチは美味しいと思わないので
韓国は好きではありません。
というか基本的に自分の好きな食い物の発祥の国は許します。

しかしこのメソッドでキムチも美しく見えるようになりました。
これで嫌韓の人もスピリチュアルな目覚めに近付けますね(?)

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かなりアバウトな性格の既婚平民

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