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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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以前の記事でも「起きてる時と夢を見てる時と熟睡してる時は同じ」みたいな事を
書きましたが、最も真実(?)に近いのは熟睡してる時です。

熟睡してる時は、自我も思考もクソもありません。
これこそ本来の状態に極めて近いのですが、何故か我々は起きている時が
本体みたいに感じてしまうのであります。

なのでこの概念が引っくり返ればそれでOKというアバウトな話に
なってしまうのですが、 よく考えればスピ系で言われる「手放せ」なんて
夢から覚める度に誰もが行ってるはずなんですよ、なので「手放し状態」
本来なら当たり前なのであります。

去年ぐらいに見た夢で強烈に記憶に残ってるのが、
何故か私が夢の中で豹の顔をしたグインサーガみたいなオッサンと
京浜東北線に乗り、わけのわからない国に行ってマシンガンでドンパチやるという
ファンキーな夢だったのですが、そこで(夢の中で)攻撃してきた少年兵みたいな
子供に対し、豹のオッサンが反撃を指示したので私が撃ち殺したわけですが、
何故か豹のオッサンが「オマエ、やり過ぎだろ!!」といきなりキレて、
私が何か言い返した所で目が覚めたのであります。

目が覚めれば夢の中で撃ち合いしてた緊張感も無く、子供を撃ち殺した罪悪感も無く、
何事も無かったかのように起きますよね。

つまり「手放す」なんて殆どデフォルトに行えるはずなんです(でも理不尽にキレた
豹のオッサンには今も少しムカついてる)これはやはり「経験者」である私は存在しない、
という事に気付くしかありません。

実際マシンガンで戦ってた「私」は何処にも居ないわけです。
なので居ないはずの「私」が経験したり記憶したり感じたりした事は全て幻です。
起きてようが夢を見てようが同じです。

何故なら夢から覚めると夢の中の出来事を全て手放すのと同じで、
眠りに入る時は起きてる時の出来事を全て手放すからです。

全てはスクリーンに写し出された映画のようなものです。
いつでも熟睡という状態に入る事で映写機側に回れるのです、
それは誰もが意識せずにいつも行っている本来の状態なのです。
その常に在る本来の状態に戻れば良いのです。







余談ですが今回の記事を書いている途中にゲームクリエイターの
飯野賢治さんの訃報を知りました。

正直言って私は飯野さんの作ったゲームは、飯野さんがゲーム雑誌に
出てきた当時から大して面白いとは思いませんでしたが、
学生時代に友人と「エネミーゼロ」を攻略したのは良い思い出です。

ご冥福をお祈り致します
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主体と客体を越えた所に「私はいない」とか「自由意志は無い」とかの
次元(?)があるかもしれないのですが、これは正直文章で書くのは難しいです。

しかしこの辺に関するメールも多いので改めて書いてみますが、
まあこれはあまり深く考えなくて良いんですよ。

ちょっと苦しい例えになるかもしれませんが、今、世間ではデフレ脱却とか
インフレ起こすぜとか騒がしいですが、お金ってのは物価が安くなれば価値が高まるし、
物価が高くなれば価値は減りますよね。

つまりお金ってのはたくさん持ってると良いって価値観は実は幻で、
その価値は変動する物価によって簡単に変化してしまうのであります。
お金そのものに価値を置くか、その裏側に流れているものに
注意を向けるか
の違いであります。

もっと言ってしまえばお金そのものに実体みたいなのは無いんですよね、
まさに単なる紙切れです。

個人的な見解だと、何となく貧乏そうな人ほどお金そのものに価値があると
思い込んでいる傾向があるように見えます。
まあこれは完全に独断と偏見なんでどうでも良いですが。

話が逸れたので金の話はここまでにして、度々お勧めしているダグラス・ハーディングの
著書「今ここに、死と不死を見る」でも紹介されている話ですが、
鏡か何かに自分の顔を映してどんどん近付いていくと最終的に自分の顔は見えなくなり、
何も見る事は出来なくなります。

つまりここで言いたいのは、お金の価値と同じく「私」というものも
鏡に映した自分との距離等といった様々な要因によって初めて「私」が
作られる
という事です。

恋人や友人の写真とかもPCで思いきり拡大したら何が何だかわかりませんが、
適切なサイズにする事で初めて「恋人」や「友人」が現れます。
世界とは結局「在るけど無い」と「無いけど在る」が様々な要因次第で
如何様にも現れる漂う煙
のようなものです。

思考や感情も煙のように形を変える不確かなものです。
ゴキブリ大嫌いな人に真っ黒い画面を見せても何も感じないでしょうが、
画像を縮小してそれがゴキブリの画像だとわかればギャーギャー喚くでしょう。

自我に関しても起きている時は在るように感じますが、寝ている時は
在りません。これまた「在るけど無い」「無いけど在る」ものです。

しかし自我は強烈に「在る」と感じられるので、それに付随する思考や感情も
「在る」と感じられてしまうのです。こうして世界は主体と客体に分離され、
戦争が始まるのです。主体と客体に挟まれた自我(経験者)は戦争によって
ボロボロに傷付き、悩み、苦しみから決して逃れられないのであります。

この終わり無き戦争を終結させるのは核兵器でも無ければ憲法九条でも無く、
主体と客体自体が実は存在しない事に気付く事です。

あらゆるものが煙のように不確かなものだとわかると、
別に手放すとか何だとか頑張らなくても勝手に手放してしまいます。
「実は実体が無い」ものをいつまでも持っててもしょうがないからです。
カッコ良い言い方をすれば「今」と握手して仲直りする事です。

しかし全てを手放しても、最後には言葉による理解を超えたものが残ります。
それが主体と客体を超越した何かです。
スピ系の書籍等を読むと、思考を止めてどうたらこうたらとか
瞑想してどうのこうのとか様々な方法が示されていますが、
やっかいなのはどうしてもそれらを思考を用いて解釈せざるを得ない所です。

例えば「思考を止めてうんたらかんたら」という知識を得て、それを実行しようとすると
「思考を止めようとする思考」が存在するという事になります。
これでは思考が二つ存在してしまうので、明らかにおかしいのですが
この「思考が二つある」状態に気付かずに陥るケースは非常に多いのであります。

思考を止めて云々というのは昨日も書きましたが、実は思考・心は存在しないという
事を知るために行うものであって、思考を押さえ込むものではありません。
存在しないものは押さえ込みたくても押さえ込めないのであります。

にも拘らず「思考止め」がよく出てくるのは、「何かを求めて行う事は必ず分離する」
という絶望的な事実を逆手にとって、「思考を止めようとしている思考があり、
そしてその事をまた思考している思考があるという事は、思考が複数存在してて
そんなのおかしいでござる」という事を実感させるためです。

ここで初めて昨日の記事にも書いた(〇)と(☆)の四次元殺法コンビ
消滅する瞬間に立ち会えるのです。

「思考を止めるとか何もしないって、スピ系の知識を知る前に戻るって
事かもしれないけど、ふと気付くとそれじゃ何も変わらなくね?」と
ある程度知識を蓄え、外側の事象に動揺しなくなってから
却って妙な虚しさに漂う人は多いのですが、この場合は結局思考が
複数”在ってしまう”状態に気付いていない事が殆どです。

結局これは存在しない四次元殺法コンビを「存在するもの」として扱うから
このような迷路に迷い込むのです。

心も思考も消えたときに何が残るでしょうか、恐らく言葉で表せる物ではありません。
全てが本来の状態に戻り、主体と客体の区別は消えたのであります。

眼球が眼球自身を見れない、右足が右足を踏めないのと同じで、
それを表す事は不可能です。不可能ですが、眼球が顔のどの辺にあるか
大体わかるのと同じで、やはりそれは在るのであります。
スピ系でよく言われる思考や感情を観察する、というのは結構簡単に出来るもんです。
何かを感じれば「ああ、怒ってるわ」とか「喜んでるぜ」とか、”観察者”になれば良いだけですから
かなりお手軽ですよね。

”観察者”は感情や思考を沈めるのには便利なメソッドであります、
「観察する者」「観察される対象」が存在するので分離は無くなりませんが、
自我は静まるのでとにかく落ち着きたい人にはお勧めであります。

今回はこの「観察する者」と「観察されるモノ」の垣根も取っ払っちまおうぜ、というお話です。

まず何故に”観察者”が存在できるのかというと、当たり前ですが「観察の対象」が
存在するからであります。

我々は普段あまりにも感覚を通して何かを経験する事に慣れ過ぎています、
感覚を通して心で判断し、そして自我が現れます。
こうして自我が世界を舞台にしたゲームに参加するのであります。

”観察者”は判断した事を観察する者です、つまり自我の動きを見つめています。
結局は”観察者”も分離の産物なのです、その正体は形を変えた自我そのものです。

自我は生き残るために「自らの動きをあえて見せ付け、本来の自分に気付かせない」という
露出狂のオッサンもビックリの戦術に出たのであります。

前述したように感覚を通しての判断は、あまりにも当たり前過ぎるので何も疑問にすら
思いませんが、これ自体が既に分離であります。

全てが自分なのに「感覚を通して」世界を観る事は既に本来の自分から離れているのです。
感覚という道具を使って世界を観るという事は、その道具の使用者がいるはずで、
これでは”観察者”と同じく分離した概念になります。

世界は自分なのですから観れるものではありません、眼球をグルグル回しても眼球自体を
観る事は出来ないのと同じです。つまり最初から我々は本来の自分であり、
「感覚を通して世界を知るのが当たり前」といった思い込みが視界を曇らせていたのです。

この”最初の分離”みたいのに気付くと、観る者と観られる者の垣根は崩壊します。
観る者は観られる者でもあり、そして感情も思考も本来の自分に飲み込まれ、消えていきます。

感覚も心も自我も、海から生まれた波と泡粒や水滴のようなものでした。
海から見れば、それらは存在しないのと同じです。

もう少しわかりやすく言うと、例えば風呂をかき混ぜると波や渦巻きや泡粒が発生しますが、
「それらは風呂では無い」と言うでしょうか。
何が発生しようと風呂は風呂なのです、バスクリンの入れ過ぎですごい色になっても
風呂は風呂です。

渦巻きや泡粒が「風呂とは別個の存在として在り、しかもそれこそが私だ」という勘違いから
全ての悲劇(喜劇)は始まったのです。

母なる海(風呂)は最初から穏やかにそこにあったのです。
覚醒体験とか至高体験とかよくありますが、これも昨日の話の流れで行くと、
体験者(経験者)の立場からだと結局は足かせみたいになると感じます。

こういった体験は私自身もかなり前の記事とかでちらっと書いてますし、これ以外にも
何だかすごい体感と感動を伴う体験みたいのはある事はありますが、
こういった体験ってスピ系に興味のある人からすると「すごい、素晴らしい」って
なるかもしれませんが、まるでそういうのに興味の無い私の彼女みたいな人から
すると、「モルダー、あなた疲れてるのよ」みたいな一言で終わりだと思います。

数年前、至高体験ぽいのを感じた後に彼女にその事を話したら、
彼女は黙って精神科の病院を検索し始めました(マジで)

ここで私が「病気なんかじゃない、これは人類の新たなステージへのアセンションで
何たらかんたら」と言った所で興味の無い人からすればキ〇ガイの戯言なわけで、
やはり「経験者」は「経験」によって傷付けられるのです。(このブログなんて全部戯言だろ!
という的確なツッコミはこの際無視します)

まあ私の場合は別に覚醒でも何でもなくリアルで病気だったか、単なる飲み過ぎ
だったんでしょう。

どんな経験にせよ経験を特別視するのは、経験と経験者という分離を起こすので
変にそういったものを求めるのは、ある意味デンジャラスなのではないかとも思います。

結局どんなに素晴らしいビジョン、感動が湧き上がっても、それを見ているという事は
既に分離
なんですよね。

私の場合は「あるべきものが、やっぱりそこにある」というのを実感した時が
ある意味一番感動したんですが、気付きというものは大変にシンプルなのかもしれません。
まあ偉そうに言えた義理じゃないですが。

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