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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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以前、「それ行けAさん」の中で「運動と時間の概念を疑ってどうのこうの」って
事をちょこっと書いたんですけど、これは別に大した事じゃなくて、
運動や時間はある意味自我にとってお馴染み過ぎる概念であり、
これらの見方を変える事で自我を超えるのであります。

前も書きましたが運動と時間というものはセットであって、
運動が発生しないと時間という概念は発生せず、その逆も然りであります。

で、さらに話を進めると運動と時間が生まれるためには空間が必要です。
ボールが進むためには空間が必要であり、空間を進むという運動をボールが
行う事で時間が生じます。

そんなの当たり前やんけ、と思うかもしれませんが、その当たり前を
認識させているのは何なのかという話です。

「私が認識しているのだ」となるかもしれませんが、ではその私とは、
何故に認識できるのでしょうか、空間や時間や運動の概念のおかげで、
「私が認識出来る」のではないでしょうか。

という事は私(の認識)を構成しているものは、あらゆる全てのモノや概念とも
言えるわけです。
つまり(自我が)見たり感じたりしていると思っていたものは、
実は同時に見られたり、感じられたりしていたのです。

自我の目線でいくら答えを探しても見つからないのは、この為であります。
最初から当たり前すぎるほど目の前に在ったからこそ、気付けないのです。
まつ毛を直に見るのが殆ど不可能なのと同じです。

お互いが最初から統一されていたからこそ、全てが成り立っていたのです。

で、さらに話をややこしくすると、それではその「統一されていた!」
認識しているのは何者であり、一体全体何のおかげで、そのような統一されて云々という
電波を発信出来るのか認識を持てるのか、という話になり終わりがありません。

まあこれ以上電波系の話になっても何なので、少し話を戻すと
運動とか時間とかは、結局は自我の目線でのゲームを作動させるための
要素であって、本来は運動しているものも無く、流れている時間も無いと思います。
「それ行けAさん」で未開のオッサンが、車の中から見える風景が動いていると
思っていたのと同じですね。

言い方を変えれば、セル画に描かれたアニメキャラは運動していませんし、
時間も流れませんが、連続して映してアニメの世界という空間を創り、
さらにその空間に運動と時間が発生してくれないと
アニメとして成立しないっつー事です。

運動は単なる模様であり、時間は匂いや香りの類のように感じられれば、
これであなたも今日から高次元存在の仲間入りです。
プリマハムとか適当な名前を名乗ってデビューしましょう。
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何回か書いていますが、受け入れろだとか許すのだとかの表現は、
やはり大変に抵抗があるようで、「受け入れれば救われるのか」的な
方向に考えたがる人が多いようであります。

まあこれは当たり前の心理で、苦しさから逃れるには受け入れるしか
無い的な感じに捉えてしまうのもしょうがないと言えばしょうがないですよね。

なんで受け入れろだ何だというのをオススメ(?)するかと言うと、
結局は世界というものは同時に存在しているからであります。
テレビゲームで言えば、プログラム上にゲーム内のあらゆるデータが
同時に存在しているのと同じです。

つまりキャラクターの誕生も死亡も、レベルが上がったとか呪われただのも、
キャラクターから見れば時間と共にそれらの事柄が起きてくるようにしか
見えませんが、実際はプログラム上に全てが同時に存在しているからこそ
なのであります。

つまり喜んでいるキャラも苦しんでいるキャラも、生きているキャラも死んだキャラも
同時に存在しているというわけで、この事を体感すると、いわゆる「自我」は
どうでも良い存在となっていきます。

自我というものはある一点に焦点を定めないと存在できないわけで、
あらゆるものが同時に存在していますとなると、自我は居場所を失ってしまうのです。
で、残ったものがいわゆる本当の私とか何だとかというものです。
つまり何時でも何処でも時間を超えて存在していた意識であります。

受け入れろだ何だっつーのは、結局受け入れる事で
実は全ては同時に存在しているものだという事に気付くためです(多分)

受け入れなくても何かの拍子に体感しちゃうケースもあるみたいですが、
やはり全て受け入れた後に大きな気付き的なモノがあるようであります。

まあ前回も書きましたが、この気付きも厄介なモンで、気付きに執着すると
また話がややこしくなるのですが、「気付いていない」と「気付いた」も
同時に存在しているので、やっぱりそれらは超越するものだと感じます。

話を戻しますが、受け入れないと、結局苦しい事と戦い続ける自我が
ずっと居座る事になります。

なので「受け入れれば救われる」というのは表現を変えて戦い続けているだけで、
これは全然受け入れてないです。
「受け入れれば救われますか?」という問いには「(自我は)救われない」が答えです。
リンクにざむらいさんのブログ「ざむらい」を追加しました。
まだ開設したばかりのブログのようですが、よろしくお願いします。

このブログは基本的に来る者拒まず去る者追わずなので、
スカトロマニアのサイトとかグロ画像集とかじゃない限りはリンクします。
ドラクエ攻略ブログとかでもOKです。

ちなみにドラクエ10は序盤さえ乗り切れば一気に楽しくなると思います、
序盤のゲームバランスに少々難があると感じました。

私のキャラはシコシコレベルをあげて、いつの間にかレベル40近くまで
成長しましたが、全くストーリーを進めていないので
これから各地のボスキャラをボコりに行く予定であります。
自我(エゴ)が消失し、感動しましたとか泣きましたとか一年分射精しましたとかの
メールを結構頂くんですけど、その後にあの感覚が無くなってしまいました、
どうすれば良いのみたいになる人も多いようであります。

まあ私も自我が消失して、隣の家のオヤジや向かいのマンションとかが
全て自分のように感じる、とても幸せで感激で泣きそう、というのは結構ありますが、
これは早い話が何かの病気であって、こういうのを
最初に求めちゃうとアブナイ人一直線になるので、あくまでこれは
結果というか過程の中でそのような感じになる(かも)というだけで
あまり重視しない方が良いかもしれません。

と言っても自我が無くなるというか、働きが弱まれば、ある種異様な
感覚が生まれるのも事実であります。
が、これは本来はごく当たり前のものでもあると思います。

こういうのを「特別な体験」みたいにしちゃうと「特別な体験」っつー概念自体が
自我の目線でのものですから、わざわざランクを落とさなくても良いのであります。

この前イギリス行ってきましたけど、イギリスと日本は当然街並みも違うし、
住んでる人種も違ってまさに別世界のようですが、全て地球の一部で
あります。「そうか、全ては一つだったのだ!」と感激しても、それは個人の自我の
レベルで感激しているだけで地球から見たら当たり前です。

つまり強烈な至高体験的なものはそれを提供しているもの、
提供しているものっつーのは、この場合日本とイギリスは一つであった、という気付きを
提供しているのは地球ですが、それから見たら当たり前という事であります。
当たり前になっちゃえば、特に自我が騒ぐことは無くなっていきます。

つまり当たり前の事に気付いていけば行くほど、自我の働きは弱まっていくので
あります。強烈な体験をして感動して、「夢をもう一度」的な感じだと、
返って離れていってしまうのです。

なので逆説的になりますが、求めない事が、近付く事に繋がるのであります。
このブログでは、あまり「高次元存在」とかの言葉は使わないようにしていますし、
高次元存在に名前を付けて会話したりという事もしていません。

しかし、スピ系業界においてはまさに高次元存在のバーゲンセール状態であり、
その辺のオヤジにすら高次元存在が降臨して、そのままオヤジが
本を一冊書いたりしてしまうほど、高次元存在は我々にとって身近な
存在になっているようであります(?)

ただ私個人としては「高次元存在」があたかもコックリさんの如く降臨して
喋りまくるという展開は、やはり信じ難いものがあります。
というより想像すると殆どギャグだと思います。
まあ「高次元」っつーのが果たしてどのような意味を持つかでも変わってきますけど。

単純に次元が高いとか低いとかの話に絞ると、前回の「それ行けAさん」
例に出すと、Aさんは次元が高い方で、未開のオッサンは次元が低い方です。

未開のオッサンは通り過ぎる街並みやビルがそのまま消えてしまうと思っています。
つまりこれはある意味死の概念でもあります。
しかし高次元存在のエイブラハムならぬAさんは街並みやビルが「死なない」のを
知っています。

これをそっくりそのまま我々の持つ死の概念に単純に当てはめると、
実は死ぬ者はいない、死は無い、という事になります。

が、ここで思うのが「ではリアルでザオリク(ドラクエで生き返る呪文ね)は可能なのか」
という事になりますが、死は無いのだから死の対極である生き返りも無い、事に
なります。

消えた(死んだ)ように見えるのは、未開のオッサンが、通り過ぎてゆく建物が”居なくなった”と
誤解しているのと同じように、「実は消えてもいないし死んでもいないんだけど、
見えない、気付けない」という事になります。

で、ここで話が少し飛躍しますが、Aさんから見て未開のオッサンが抱いている
死の概念は明らかにおかしいわけで、つまり無いものを在るという概念を
オッサンは抱いているわけです。

その逆に在るものを無いと思い込む場合もあります。
例えば、この道を車でまっすぐ行けば必ず曲がり角で別の車と事故を起こす、
とあなたの携帯に謎の預言者から着信が入ったとします。

そんなアホなと気にせず直進し、やっぱり事故を起こしたとします。
何故預言者は事故を予言できたのか?
何のことは無い、マンションの屋上から下を見てて、道路を走る車の
位置や死角になっている所が一目瞭然だからわかっただけです。

車を運転しているあなたにとっては事故の預言など「無い」ものですが、
上から見てた預言者にとっては「在る」ものだったわけです。
ここでも、単純な次元の違いによって両者の見ている「現実」が全く異なるものに
なります。


さらにこれを突き詰めていくと、結局我々が在ると思っている肉体や思考すら
実は無いものではないか、という話になります。
ルビンの壺で向かい合う顔と壺が別々でありながら、どちらも在り、そして無いのと
同じです。

つまりオカルトチックな言い方をすると「どの次元に基準を置くか」という事です。
二次元なら次元大介になるのであります(これが言いたかっただけ)

基準を置いた次元がイコールそのまま自分になるので「高次元存在」と「私」は
分離した状態で存在はせず、統一されているはずなのです。
私が「高次元存在」だけが降臨してくるというのは無いと思う根拠でもあります。

話がかなりややこしくなりましたが、思考や感情に振り回されても
それは低次元だからあたかも思考や感情に感じるだけで、
そういったものを超越していくと、嫌でも高次元に行き着くのではと思う次第であります。

まあその状態を指して「高次元存在が降臨した!」と感じたのかもしれませんけど。

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